未詳まで

同じ人

物語の話

 公的言語は私的言語の比喩である。例えば、人生は無意味だ、と思う事は言語的な条件反射であって、そう思う時に感情に生じる直感は、人生が無意味であるという事実よりも遥かに恐ろしい地平まで延びている事があるのだ。公的言語は還元主義を暗黙の裡に含んでいる。膠着した意識の上で問題を解消しようとしない事。芸術と論理を区切る稜線は僕の目には連続的に見える。

 

 ある価値を妥当なものであると判定する事を主観的経験に還元してみると、その説明によって何かしらの安心感を覚える、という程度の事なのではないかと思う。大乗仏教を勉強してる風の人が「私は悪い事をしていないから、来世は幸せである筈だ」と自信に満ちた顔で言う。「だから死は怖くないのだ」と。だけど僕は勿論、(仮に来世を信じるとして)そんな風に納得する事はない。人間がある現象を現実であると認識するその射程は各自の推論の能力によって規定されていて、それが確かなものであると保障する事が出来ない以上、全ての人間は不可避的に罪悪の連鎖に参与させられていると考えるのが、仏教的な見地からすれば妥当だと思われるからだ。だから「私は悪を成してしまっているので地獄に堕ちるかも知れない」と考えるべきだ、と言いたいのではない(その不安は同様に陳腐だ)。そうではなくて、「私は自分の認識能力の外部で逃れ難く、既に悪を行ってしまっている」という方向で自覚を持つ他に選択肢などないのだと言いたい。縁起や輪廻とは、(少なくとも)そういう事態を表現しているのではないか、と思う。「自分は悪を成していない」なんて言う事は(咽び泣きながら言うのでなければ)思い上がりにしか見えない。なので僕はそんな風に安心出来ない。

 人間は欺瞞を排し安心を得る為に、推論を延長し、思弁的な体系を形成する。この時に心に留めて置きたいのは、欺瞞が悪であるという訳ではなく、欺瞞が不安を呼んでいるから、人がそれを退けようと試みているに過ぎないという事だ。正確には、直感に対して辻褄合わせが不足している場合に、人は不安を覚え、その説明原理を欺瞞であると感じる、という順序になる。真理の表現はいつも主体に折り返されなければならない。だから自らの無罪性を信じる事も、それ自体として間違いであるという訳ではない。少なくとも、僕はそう考える。

 

 ここから先は以上の事を踏まえた上での話。素朴に善悪の実在を信じていて、物語というファクターすら認識に備わっていない人間のナルシシズムに触れると、余りにも自我が脆弱なのではないかと僕は思ってしまう。子供ではないのだから、自分が世界の中心ではない事くらい直感している筈だが、勧善懲悪的な体系を解体するだけの思想的な体力がないので、何らかの具体的な褒賞が与えられると自分は間違っていなかったのだと結果論的に判定を下し、その度ごとに誤魔化して来たのだろうと推測してしまう。彼らの踏ん反り返った姿勢はそういう経験によって正当性を得た自信なのだ。そうしなければ自我が理不尽に耐えられないのだろう、と僕は思ってしまうのだ。彼らは善悪が世界に存在しない事を口先では当然の様に言うが、彼らにとって価値の正当性の不在は、目眩を覚えるような事件ではあり得ないのだ。コントロール不能な偶然性を支え切る世界の構築は、彼らの生に於いて実際的な課題ではなかった。それは単純に平和ボケを意味していて、そうでなくても世の中を見渡していれば、まず陥らないイデオローグだろうと思う。まったく、善良さなんてものは思考停止以外の何でもない。とはいえ、そんな事を他者に要求する事なんて出来ないし、僕は彼らの心が壊れてしまえば良いだなんて思ってもいない。その人が満足してるならそれに越した事はないので、結局これは僕が個人的に関わりたくないと感じているというだけの話なのだ(いつも通りの帰着点)。

 

 ただの悪口を書いてしまった気がします。全て気圧の所為にさせて下さい。僕はもうダメです。(書いてる途中で、そんなやつ本当にいるのか?という気分になっています。)

 どうでも良い事だけど、気圧が低い日はベートーヴェンピアノソナタを聴きたくなる。(気圧の低さとベートーヴェンの音色は似ている。)

白昼

 未だに電車に轢かれる夢を見る。眠っている時ではなく、ぼーっとしている時などに、ふと気が付くと自然に。僕は駅のホームの最前列に並んでいて、後ろの人間に突然、背中を押される。そして電車と衝突する瞬間、背中を押したのが自分自身である事を、僕は知っている。どうして、と思う。それと同時に、僕は僕自身を線路に突き落とす僕でもある。明確な狙いを持って、何か重たいものを背負わせて、吹き上がる汚物を託して、僕は自分の背中を押す。困惑と殺意。その二つの映像と感情を、並列的に展開して、同時に頭の中で感じ取る。

 一連のイメージは余りに繰り返し過ぎたので、もう殆ど僕自身から切り離しようがないものになっている。 こんな事を、こんな風に言語化する行為は許されるのだろうか。馬鹿みたいだけど、許して欲しい。誰に向かって頼んでいるのか知らないけれど。

 

 具体的な問題について考えなければならない、と思う。手遅れになり始めている。僕は酷く孤独で、始めから孤独だったから孤独であるという事を感じさえしない。かつて涙が出るほど欲しかった筈のものを見ても、今では何も感じない。諦めであると理性で判断しているが、それを諦めとして感受する能力はない。それが諦めたという事の意味なのだ。

 問題を純粋に抽象的な方向へ持って行く事は出来る。そちらの方向で解決を図る事なら、僕には出来る。深呼吸を二回もすれば、例の圧倒的な無関心の地平が薄っすら見えて来る。だけどそれは別の角度から見れば、いずれ追い付かれる規範からの逃避でしかないのだ。だから僕は少しばかり現実的に考えなければ。生きていくためには、考え方を変えなくてはいけない。しかし危機感も、焦燥感もない。僕は生きる事に関心がない。これが本来的自己なんてものじゃなくて、心の底からどうでもいいから、どうでもいいと思っているだけだという事を、僕は知っている。

 僕には何らかの基本的な欲求が欠けていて、だから日常に融和する動機を確保する事がとても難しい。手掛かりが見当たらない。有益性と人間関係を基礎とする凡ゆる価値基盤は、いつも僕を疎外して来た。僕は努力をした気がする。もっとも、人の事なんてさっぱり分からないから、自分は努力をしたと言い張る事なんて出来ない。感情の比較は虚しくなるだけだ。それでも、僕は努力をしたのだと思う。

 

 大学生は孤独が許される殆ど唯一の時間で、僕は孤独を達成してしまったので、この先どこかへ向かう理由が存在しない。今の所、と思いたい。いや、別に思いたいとも思っていない。

 

 抵抗があるけれど、僕自身のことだ。僕は多分、というのは正式に診断を受けていないので……ASDの傾向がある。それで結構な分裂気質だったり。それから重症の、少しばかり常軌を逸して(と言っても構わないと思いたい)重症のアレルギーを持っている。何はともあれ、このアレルギーが何もかもの元凶だった、と思う。ストレスが昂じて鬱なのか神経症なのか、感情面でも何か色々と併発している。全体として自分では良く分からない。精神科には行かなかった。身体の方は徐々に軽くなって来ている。

 僕の両親は、社会的な善良さと素朴さによって広く共感能力を代用しているが(と言うと聞こえが悪いけれど、どちらも立派な美徳であり、だから代用が可能なのだ)、他者を相対的に理解する能力は殆ど備えていないような人だ。彼らを呪うことなんて出来ない。何せ間違っているのは僕なのだから。

 

 一番苦痛だったのは多分高校で、教室という空間の全てが耐え難かった。その中で僕という人間は、不快で、不自然で、どう甘く見積もっても存在しない方が良い存在だった。と言うよりも、存在しないも同然だった。乱雑な情報は全てノイズとなり、文字が上手に読めなくなった。人の話も聞き取れなくなり始めた。感情の殆どを消し、何も覚えられなくなった(だから本当に、学校の具体的な記憶が余りない)。一週間かけても歴史の教科書を数ページ暗記する事さえ出来なかった。僕は本物の、正真正銘の、無能になってしまった。もちろん波はあるけれど、どうしようもない時に試験日が重なると、殆どの教科を白紙で提出するしかなかった(記号欄だけ《ア》と埋めて)。

 それでも僕は自分を病人や異常な人間だと見做す事に付きまとう、生柔らかい欺瞞や陶酔の可能性に、激しく嫌悪感を抱いていた。自意識過剰なのではないか、馬鹿げた「フリ」をしているのではないかと、自分自身を疑うと吐き気を覚えた。普通という漠然とした精神的領土に雁字搦めにされていたのだ。僕は無知で、自分の苦痛を取り沙汰す理由がなかった。甘えているだけなんだ、と思った。混乱や殺意や希死念慮は、ただの厨二病の一形式なのだ。いつも笑ってる彼も彼女も、その内面は呪詛に満ちているのだ。僕が嘘を付くのが下手なだけなのだ。そう思わなければ耐えられなかった。人間がどれも同じ薄気味悪い人形の様に見えた。学校は一日も休まなかった。

 

 彼らの言う所の共感能力。彼らは世の中の全てが分かった気になっていて、最も狭量な一般論で気持ちを表現出来る。それは真性の御都合主義で、エゴでさえない、何の意味もない喚き声。もちろん本当はそうではなく、僕だけがその言葉の意味を読み取れず、処理出来なかったというだけの話だ。僕は聞こえてくる言葉の全てを遮断した。自分に敵対する世界の、何か重力の様なものを不足なく言い表す言葉だけを探していた。日常生活は惰性の力だけで乗り切った。

 

 不条理。 偶然。

 いつだったか、幾つかの単語が心の中に残留している事に気が付いた。そうした言葉の破片は、普通とは異なる不思議な響きがするようだった。けれどもその先に何か続けようとしても、拙い言語能力では、相反する感情と理屈によって、どれも予め封殺されてしまうのだった。何もかもが自分自身に跳ね返って来て、僕自身を余計に傷付けた。

 世界は僕の鏡なのだ。

 煮えたぎる感情を封じ込めたまま、僕はこの時、帰結というものを放棄した。

 

 

 なんとか大学生になり、その心理的過程の全てを記述する事は到底出来ないけれど、なんていうか、僕は完全に折れてしまった。僕は乗り切ったのだから、もう大丈夫なんだと思っていた。自分を褒めてやりたかった。それなのに人の心は、そんな風には作られていない。ボロボロに尖らせた錆びの様なプライドで支えていた人間性が、音を立てて壊れるのは、ただ単に時間の問題でしかなかったのだ。

 

 

 ある日、講義の後、突然地面が揺れた様に感じた。地震ではない。高校生の時にも、いま立っている地面が突然抜けてしまう様な、そんな瞬間があったけれど、それと同じだった。以前の僕は、決して意思を曲げなかった。だけど今の僕は、もう既に沈んでしまっていた。

 風景が不自然に曲がり始めて、腐った様な匂いがした。僕はこれを大袈裟な表現だとは思わない。目が回り、手をつこうとして腕を伸ばしたが、そこに壁なんてなかった。バランスを崩し、瞼を閉じ、項垂れて、揺れが収まるのを待った。このまま地面に倒れて眠ってしまいたかった。

 その時、唐突に「回収しなければならない」と思った。

 正確には僕が思ったのではなく、彼らがそう思っていて、僕の目眩の中に感情が伝わっているのだった。

 どれだけの自己を抹消して生きて来たのか、もはや分からなかった。自分が一体、誰なのか判然としなかった。自分の体も、感情も、思考も、誰か別の人間の物の様に感じられた。僕は自分自身から弾き出されて、僕の中で異物だった。頭の中で、回収しなければならない、という声が響いていた。だが一体何を…?だけどそれが僕が従うべき最後の警告なのだと思った。それ以外には何一つ必要なく、それだけが重要な事のように思われた。

 少し冷たい風が吹き始めた、良く晴れた昼の事だった。

曇り空の系譜

 青く透明な空に、もくもくとした遮蔽物が浮いている、というイメージが重苦しさを余計に連想させていると思う。僕は白くて清潔だから好きだけどな、曇り空。

 

 そういえば「色彩家は曇天の下でも美しい画面を完成させなければならない」なんて事をドラクロワが言っていた(台詞はうろ覚え)。その言葉通り、ドラクロワの色彩の発見は、まず視覚から明暗による認識を否定する事から始まったに違いない。それから勿論、透視図法的な遠近法も取り去られている。

 そうして物から固有色を解放した彼の成果はその後、燦々と煌めく光を描き出す印象主義者や、精神の奥深くに眠る暗闇を色彩その物の効果よって表現するルドンら象徴主義にまで引き継がれ、それぞれ独自の形式へと発展する。

 しかし爆発的な色彩が与える心理効果を、その発明家にして既に知り尽くしていたであろうドラクロワは、特に代表作『サルダナパールの死』に於ける、財産の全てを略奪される最中に退屈そうに無表情を保つサルダナパールの描写と、凄惨な場面に似合わない画面全体の静謐感に見られるように、「刺激の中での倦怠」というモデルニテの精神の萌芽を、その画面の中に早くも予告しているかの様だ。

 その意味に於いてドラクロワの精神の後継者と言えるのは、幻想的効果を排し、人間の剥き出しの生を描いたマネであり、その知覚に於ける後継者は、色価によって全く新しい空間を出現させたセザンヌなのではないか、と思う。彼らの作品は、同じくドラクロワの影響下にあるモネやルノワールなどの画面と比較してみても、事物の捉え方の違いは瞭然だ。それは自然光を排除しなければ立ち現れる事のない冷徹なリアリティ、つまり曇り空の系譜としてのドラクロワ後継者。

 そして原始美術との邂逅を経たピカソによって、画面に豊かな生命感は取り戻される。しかし事物を優しく照らし出す太陽に逆戻る事など有り得ない。それは画面の内側から照射し、命を焼き尽くしバラバラに破壊しようとする太陽による、逆説的な生命の表現だ。

 

 なんて感じで、個人的に好きな大画家についてぼんやり繋げて考えていた(少し無理があるかも知れないけど)。曇り空が齎した表現も豊かなのではという、思い付きの話。

 こういう文章を書くのは、どうも苦手ですね。僕は記憶の引き出しを開けるのが素早くないみたい。

蓋然性とか

 知識の説明や概念の整理をわざわざ自分で言語化しようという気力がさっぱり湧かない。好きな本とかアニメとか音楽について熱く語るのも何だか面倒くさい。理想としては、もっとメタフォリカルなイメージで一気に全体を分かった気になりたい。きっと僕の情けない記憶力とか一度に扱える情報量の乏しさがそうさせている。それから怠惰な性分。ただでさえ荒い世界の画素数がさらに落ちて行く。知識はそれなりにあった筈なのだけど、使わないから全て忘れた。有用性に興味がない。だってそれは道具的な利便性でしかないからだ。僕が言語化したいと思うのは、平安とか静寂とか、極めて茫漠としたもの。生きる事。自分に納得する事。詩や宗教の次元の話。そういう納得がどういう意味の納得なのかさっぱり分からない。それで何を理解したと言えるのか僕には分からない。音楽と同じで、有意な情報量として無であるにも関わらず、有用性の全体を追従させている何かを意識していたい。そういうものは出来るだけ勉強とは区別したい。知性的になりたくない。この現実で上手くやって行く事とは切り離したい。漠然と少しずつ純粋になりたい。

 

 哲学は少しずつ進めているけれど、直感的に気付いていたものを確定してくれるだけで、特に冒険という気はしない。どこか答え合わせみたいな感じがする。勿論ぼんやりと広がっている意識に厳密な言語で焦点を与える事は、僕にとってかなり必要な事だ。限定してくれないと、どこにも進めなくなってしまうから。それとも本当は、新しい視野を確かに獲得しているにも関わらず、偉そうに「それはそうだよね」とか思ってしまっているのかも知れない。分かってしまったら次の瞬間には自分にとって自明の事になってしまうし、僕は自分の情動の流れを因果的に把握するのがとても下手なので、ありそうな話。そもそも物事を理解したと感じる事なんてその程度のもので、知性というのは極めて隠喩的な直感として定義されるべきなのかも知れないけれど。

 僕は「こんな経験をしたから、こういう知見を得た」などと言うのが苦手だ。本当にそうなのかと疑ってしまう。だから僕は直接経験の言語化を嫌う。気付きに関する直近の出来事を原因に仕立て上げてるだけではないのか、或いは安易な物語をでっち上げてるだけではないのか、という気がするので。僕は出来事と内面の間にいつも隠喩的な距離を求めている。「こんな事があったから僕は怒った」とかも同じで、そこに「だから」という接続詞は本当は存在しないのでは。「こんな事があった、僕は怒った」とだけ言うべきなのだ、と思う。その二つの間で、言葉では言い尽くせないジャンプが行われているような気がするのだ。だけどそんな下らない拘りの所為で、酷い混乱に突き落とされる事がある様なので、程々にした方が良い。割りに合わないので。僕は不可知の領野に意識の焦点を集中させて、勝手に疲れたりウンザリしたりしている。そもそも人間の意識なんて得体の知れないものを合理的に説明する事は不可能なので、何かを原因として決め打ちする事が、象徴的な仕方で機能すれば良いだけだ。例えばエディプスコンプレックスの理論体系も、人が誰かに水を掛けられたらイラつく事も、同じ様に確かではないのだから。

 適当さ、都合の良さ、ある程度の思考停止、ここから先は想像しなくて良いという線引きに困難を感じる。いざ考えろと言われると何を基点にして考えたら良いものなのか分からなくなる。出来事と意識の間の因果関係を蓋然的に決定する事に躊躇いがあるので、器用に生きる上で有用な法則を形成出来ずにいる。僕は処世術を上手く理解する事が出来ない。僕が「他人の心が分からない」という気持ちを人よりも強く感じている(っぽい)のも、こういう所に原因がありそう。だけど手に持っている物を離したら地面に向けて落下する事も同じ様に確かではないので、考えてみれば人の心に限定した話ではない。この場合、重力の説明は何の意味もない様に思われる。だけど僕達は確かさを目的に生きているのではないのだから、何が言いたいかと言うと、人間は事実に触れる事は出来ないが、事実は想像してみる事さえ出来ないのだから、自分が認知している利用可能な解釈を事実と見做す事を否定しても仕方がない、という感じになる。説明というのは何処までも分かった気にさせてくれるものでしかないけれど、僕達は分かった気になっている事しか分かっていないのだ(何を言っているんだろう)。無知の知は自らのシンボル体系の外部を常に想定するという形而上的な態度でしかない、と思う。「事実には触れる事が出来ない」と言う時、それは事実なる物の実在を暗黙に了解している。だからこれは意識経験の場に於ける正確な表現ではない。「人間にとって触れる事が出来る物だけがまさに事実なのであり、人間はこの事実性が更新または複数化される様を目撃するだけである」という感じが妥当だと思う。

存在しない風

 春の風の柔らかい悲痛さ。別に感傷的になるつもりはないけれど、感傷の方は勿論そんな事は気にせず僕の体腔に侵入し、具体的な記憶を想起させるのではなく、匿名の記憶の反映となって嗅覚の奥で風景を広げる。

 

 言葉の消滅。沈黙。世界との接点をどこに求めれば良いのか分からず、根を断たれてしまった。自分とは関係のない知識が自動的に細分化されて行くだけ、という感覚。世界はとんでもない速度で動いているらしいと、無数の記号の群れが告げている。様々な言葉や形象は誰かの意思の現れでもない純粋な言葉遊びとして、ふわふわ宙に浮いたまま、煙か何かの様に僕の身体を通過して行く。存在しない風が吹き、振り返ってみると、ついさっき視界に入ったものや、それについて漠然と思った事が、もう思い出せない。

 

 理由も分からず様々な対立が消え去る瞬間があるが、この感覚を精彩に記述し説明する必要も、僕自身がずっと記憶し続ける必要もない。言葉を扱う事は熱意や義務の表明ではなくて、自分の内面を様々な遊びの場にするだけの事なのだと感じている。理由より先に気分があり、気分より先にあるものは僕の手から零れ落ちる。束の間の愛着。相変わらず同じ事ばかり言っていて、文体や比喩の変化が、ほんの少しだけ差異の痕跡を残す。どれが本当の自分かなんて、そんなものはない。

 

  何も押し付けたくないけれど、押し付けるほどの思想なんて持っていないから、判定したくないと言えば良いのだろうか。内省して、結論を先送りにしたい。哲学者の態度。でも生きる以上は仕方ない。仕方ないと感じる事自体が、どこかに都合の良い幻想を求めている印かも知れない。僕が何かを良いと思ったり醜いと思ったりする事自体、僕の意図を超えているのだから、僕は何故だか知らないけれど僕で、僕の見る無意味な夢は、本当に底なしに無意味だった。

みんな夢

 かなり虚しいので何も思わない。自分の単調さにうんざりしている。どうせ何も出来やしないという不安。自分が過ちを犯しているという不安。同じ不安が繰り返されるが、何も感じていない事。絶望や目的を感じない事。自分自身の言葉が誰の役にも立たず、世間的にも褒められた事は何も言えないという事の気疲れに、僕は疲れている。抽象化したくないので感覚的になる日があり、今日がそれだ。僕は明日には正反対の意見になるかも知れない事を書くのに習慣的な嫌悪感を覚えるが、継起する感情を纏め上げる事に虚偽を感じている。感覚は流れ去り、僕は自分を見失うが、全ては喪失なので、自分を見失わないものは存在しない。

 

 人間に親しみを感じず、好意を抱く事が出来ない。いつも自分を余所者に感じる。というのも、人々が集団となる時の、薄ぼんやりとした、柔らかい偽りの優しさが、人から人間性の何か厚みの様なものを剥ぎ取って、希釈された言葉と笑みが空間を包み込むからだ。緩やかな欺瞞。誰も他人を見てはいない。もちろん、これは甘美な日常の理想的なイメージの一つであって、多くの場合、数々の打算や欲望からなる、刺々しくうんざりさせる困難が一つ一つの応答に絡み付いている。しかし、僕はそうした事を煩わしく思うべきではないのだろう。正確に知る事なく解釈し、正確に知られる事なく解釈される事で現れる影像に、自らの実存を意図的に重ねる気苦労。だけど、この世界ではどうしたって、見られた者は皆、他人の夢になるのだ。苦痛が安らぎよりも真実の様に感じられるのは、まだ現実と虚構の区別が上手く付けられていない者だけだ。何故なら全ては夢なので、我々に出来る事は、都合の良い夢を見るか、都合の悪い夢を見るか、都合の良い夢と知りつつその夢を見続けるか、それとも……

死と乙女

 扱っている言葉を変えたい。ここにいたくない。言葉を変えるのではなく、経験の方を変えたい。感覚そのものを。僕の本質は自己を否定し続け、停止する事だ。それ以外には特に何の要素もないので、別人になったって構わない。全ての自分の感情を冷笑する人間が脳裏に住み着いている。そいつによると、僕の思考は僕の思考であるという理由で却下されなければならない、との事だ。何一人で舞い上がってやがる。こいつを上回る方法はない。自己否定に限界はないからだ。無視する方法はあるが、僕自身よりも僕自身なので無視できない。癒す?癒すと言っても何を?僕に感傷の権利はない。幼児退行して泣き言を言うのも嫌だ。吐いた言葉を全て自分で塗り潰さなければならない。書いた言葉を書かれたという理由で消さなければならない。僕はいつまでも逡巡する。逡巡は痙攣になって、その震えは細か過ぎるので、傍目には止まって見える。みんな死ねば良いと思う。いや、思わない。何も思わないから、思わない。倫理からではなく、思う事自体を抑圧しているのを肌で感じるので、思わない。思う事をしている人に嫉妬するが、嫉妬しない。相対的だからだ。僕が思っている事はかっこ悪いが、何も思わない事はかっこ悪い。僕だからだ。僕は自分が気持ち悪くてしょうがないが、自分を気持ち悪いと思う事もまた気持ち悪い。そう、これは自分が感じている事に対する違和感なのだ。違和感だけが真実であり、あとの表現は何かしら決定を下してしまうから、違和感の餌食になる。違和感こそが感覚の中の感覚だ。感覚の王。僕は結局、子供が書き殴る様な感情表現の数々を繰り返すだけなのだ。僕は最悪だが、別の世界の自分が思ったかも知れない事と、今この僕が思ってる事のどちらがマシだろう。僕が比較しているのだから、どちらでも良さそうだ。そうではなく、どちらも良くなさそうだ。否定形に取り憑かれた僕だからだ。少しはものを考えているのだろうか?同じことを違う言葉で言い換え続けてるだけなんじゃないか。抽象的な理屈を文の始めに置いて、結論は同じだ。僕の抽象は考える事や感じる事そのものについてであって、僕自身が考える事や感じる事に向き合う事を回避する。無内容だ。無意味だ。僕の言う事は全て同じだ。この文章も同じだ。僕が言いたいのは要するに、何も言う事なんてない、何も言うべきではない、という事じゃないか。もはやそんな事には飽きた。僕の中には多様な感性などない。何を見ても同じだ。呪われた還元主義者だ。純粋じゃないのだ。何か言ってみろ。何か名指してみろ。ほらお前、あれは何だ。お前だ、お前。あれが何だか言ってみろ。そう、あれは《死と乙女》だ。正解。実に簡潔な答えだ。それでは、その隣のあれはなんだ。《死と乙女》。また正解。分かっているじゃないか。じゃあ、そのまた隣のあれは…。