スクリーンの空

パロディ

蓋然性とか

 知識の説明や概念の整理をわざわざ自分で言語化しようという気力がさっぱり湧かない。好きな本とかアニメとか音楽について熱く語るのも何だか面倒くさい。理想としては、もっとメタフォリカルなイメージで一気に全体を分かった気になりたい。きっと僕の情けない記憶力とか一度に扱える情報量の乏しさがそうさせている。それから怠惰な性分。ただでさえ荒い世界の画素数がさらに落ちて行く。知識はそれなりにあった筈なのだけど、使わないから全て忘れた。有用性に興味がない。だってそれは道具的な利便性でしかないからだ。僕が言語化したいと思うのは、平安とか静寂とか、極めて茫漠としたもの。生きる事。自分に納得する事。詩や宗教の次元の話。そういう納得がどういう意味の納得なのかさっぱり分からない。それで何を理解したと言えるのか僕には分からない。音楽と同じで、有意な情報量として無であるにも関わらず、有用性の全体を追従させている何かを意識していたい。そういうものは出来るだけ勉強とは区別したい。知性的になりたくない。この現実で上手くやって行く事とは切り離したい。漠然と少しずつ純粋になりたい。

 

 哲学は少しずつ進めているけれど、直感的に気付いていたものを確定してくれるだけで、特に冒険という気はしない。どこか答え合わせみたいな感じがする。勿論ぼんやりと広がっている意識に厳密な言語で焦点を与える事は、僕にとってかなり必要な事だ。限定してくれないと、どこにも進めなくなってしまうから。それとも本当は、新しい視野を確かに獲得しているにも関わらず、偉そうに「それはそうだよね」とか思ってしまっているのかも知れない。分かってしまったら次の瞬間には自分にとって自明の事になってしまうし、僕は自分の情動の流れを因果的に把握するのがとても下手なので、ありそうな話。そもそも物事を理解したと感じる事なんてその程度のもので、知性というのは極めて隠喩的な直感として定義されるべきなのかも知れないけれど。

 僕は「こんな経験をしたから、こういう知見を得た」などと言うのが苦手だ。本当にそうなのかと疑ってしまう。だから僕は直接経験の言語化を嫌う。気付きに関する直近の出来事を原因に仕立て上げてるだけではないのか、或いは安易な物語をでっち上げてるだけではないのか、という気がするのだ。僕は出来事と内面の間にいつも隠喩的な距離を求めている。「こんな事があったから僕は怒った」とかも同じで、そこに「だから」という接続詞は本当は存在しないのでは。「こんな事があった、僕は怒った」とだけ言うべきなのだ、と思う。その二つの間で、言葉では言い尽くせない飛躍が行われているような気がするのだ。だけどそんな下らない拘りの所為で、酷い混乱に突き落とされる事がある様なので、程々にした方が良い。割りに合わない。僕は不可知の領野に意識の焦点を集中させて、勝手に疲れたりウンザリしたりしている。そもそも人間の意識なんて得体の知れないものを合理的に説明する事は不可能なので、何かを原因として決め打ちする事が、象徴的な仕方で機能すれば良いだけだ。例えばエディプスコンプレックスの理論体系も、人が誰かに水を掛けられたらイラつく事も、同じ様に確かではないのだから。

 適当さ、都合の良さ、ある程度の思考停止、ここから先は想像しなくて良いという線引きに困難を感じる。いざ考えろと言われると何を基点にして考えたら良いものなのか分からなくなる。出来事と意識の間の因果関係を蓋然的に決定する事に躊躇いがあるので、器用に生きる上で有用な法則を形成出来ずにいる。僕は処世術を上手く理解する事が出来ない。僕が「他人の心が分からない」という気持ちを人よりも強く感じている(っぽい)のも、こういう所に原因がありそう。だけど手に持っている物を離したら地面に向けて落下する事も同じ様に確かではないので、考えてみれば人の心に限定した話ではない。この場合、重力の説明は何の意味もない様に思われる。だけど僕達は確かさを目的に生きているのではないのだから、何が言いたいかと言うと、人間は事実に触れる事は出来ないが、事実は想像してみる事さえ出来ないのだから、自分が認知している利用可能な解釈を事実と見做す事を否定しても仕方がない、という感じになる。説明というのは何処までも分かった気にさせてくれるものでしかないけれど、僕達は分かった気になっている事しか分かっていないのだ(何を言っているんだろう)。無知の知は自らのシンボル体系の外部を常に想定するという形而上的な態度でしかない、と思う。「事実には触れる事が出来ない」と言う時、それは事実なる物の実在を暗黙に了解している。だからこれは意識経験の場に於ける正確な表現ではない。「人間にとって触れる事が出来る物だけがまさに事実なのであり、人間はこの事実性が更新または複数化される様を目撃するだけである」という感じが妥当だと思う。

存在しない風

 春の風の柔らかい悲痛さ。別に感傷的になるつもりはないけれど、感傷の方は勿論そんな事は気にせず僕の体腔に侵入し、具体的な記憶を想起させるのではなく、匿名の記憶の反映となって嗅覚の奥で風景を広げる。

 

 言葉の消滅。沈黙。世界との接点をどこに求めれば良いのか分からず、根を断たれてしまった。自分とは関係のない知識が自動的に細分化されて行くだけ、という感覚。世界はとんでもない速度で動いているらしいと、無数の記号の群れが告げている。様々な言葉や形象は誰かの意思の現れでもない純粋な言葉遊びとして、ふわふわ宙に浮いたまま、煙か何かの様に僕の身体を通過して行く。存在しない風が吹き、振り返ってみると、ついさっき視界に入ったものや、それについて漠然と思った事は、もう消え去っている。

 

 理由も分からず様々な対立が消え去る瞬間があるが、この感覚を精彩に記述し説明する必要も、僕自身がずっと記憶し続ける必要もない。言葉を扱う事は熱意や義務の表明ではなくて、自分の内面を様々な遊びの場にするだけの事なのだと感じている。理由より先に気分があり、気分より先にあるものは僕の手から零れ落ちる。束の間の愛着。相変わらず同じ事ばかり言っていて、文体や比喩の変化が、ほんの少しだけ差異の痕跡を残す。どれが本当の自分かなんて、そんなものはない。

 

  何も押し付けたくないけれど、押し付けるほどの思想なんて持っていないから、判定したくないと言えば良いのだろうか。内省して、結論を先送りにしたい。哲学者の態度。でも生きる以上は仕方ない。仕方ないと感じる事自体が、どこかに都合の良い幻想を求めている印かも知れない。僕が何かを良いと思ったり醜いと思ったりする事自体、僕の意図を超えているのだから、僕は何故だか知らないけれど僕で、僕の見る無意味な夢は、本当に底なしに無意味だった。

人の夢

 かなり虚しいので何も思わない。自分の単調さにうんざりしている。どうせ何も出来やしないという不安。自分が過ちを犯しているという不安。同じ不安が繰り返されるが、何も感じていない事。絶望や目的を感じない事。自分自身の言葉が誰の役にも立たず、世間的にも褒められた事は何も言えないという事の気疲れそのものに、僕は疲れている。抽象化したくないので感覚的になる日があり、今日がそれだ。僕は明日には正反対の意見になるかも知れない事を書くのに習慣的な嫌悪感を覚えるが、継起する感情を纏め上げる事に虚偽を感じている。感覚は流れ去り、僕は自分を見失うが、全ては喪失なので、自分を見失わないものは存在しない。

 

 人間に親しみを感じず、好意を抱く事が出来ない。いつも自分を余所者に感じる。というのも、人々が集団となる時の、薄ぼんやりとした、柔らかい偽りの優しさが、人から人間性の何か厚みの様なものを剥ぎ取って、希釈された言葉と笑みが空間を包み込むからだ。緩やかな欺瞞。誰も他人を見てはいない。もちろん、これさえ甘美な日常の理想的なイメージの一つであって、多くの場合、数々の打算や欲望からなる、刺々しくうんざりさせる困難が一つ一つの応答に絡み付いている。しかし、僕はそうした事を煩わしく思うべきではないのだろう。正確に知る事なく解釈し、正確に知られる事なく解釈される事で現れる影像に、自らの実存を意図的に重ねる気苦労。だけどこの世界ではどうしたって、見られた者は皆、他人の夢になるのだ。苦痛が安らぎよりも真実の様に感じられるのは、まだ現実と虚構の違いを上手く見定めていない者だけだ。何故なら全ては夢なので、我々に出来る事は、都合の良い夢を見るか、都合の悪い夢を見るか、都合の良い夢と知りつつその夢を見続けるか、それとも……

死と乙女

 扱っている言葉を変えたい。ここにいたくない。言葉を変えるのではなく、経験の方を変えたい。感覚そのものを。僕の本質は自己を否定し続け、停止する事だ。それ以外には特に何の要素もないので、別人になったって構わない。全ての自分の感情を冷笑する人間が脳裏に住み着いている。そいつによると、僕の思考は僕の思考であるという理由で却下されなければならない、との事だ。何一人で舞い上がってやがる。こいつを上回る方法はない。自己否定に限界はないからだ。無視する方法はあるが、僕自身よりも僕自身なので無視できない。癒す?癒すと言っても何を?僕に感傷の権利はない。幼児退行して泣き言を言うのも嫌だ。吐いた言葉を全て自分で塗り潰さなければならない。書いた言葉を書かれたという理由で消さなければならない。僕はいつまでも逡巡する。逡巡は痙攣になって、その震えは細か過ぎるので、傍目には止まって見える。みんな死ねば良いと思う。いや、思わない。何も思わないから、思わない。倫理からではなく、思う事自体を抑圧しているのを肌で感じるので、思わない。思う事をしている人に嫉妬するが、嫉妬しない。相対的だからだ。僕が思っている事はかっこ悪いが、何も思わない事はかっこ悪い。僕だからだ。僕は自分が気持ち悪くてしょうがないが、自分を気持ち悪いと思う事もまた気持ち悪い。そう、これは自分が感じている事に対する違和感なのだ。違和感だけが真実であり、あとの表現は何かしら決定を下してしまうから、違和感の餌食になる。違和感こそが感覚の中の感覚だ。感覚の王。僕は結局、子供が書き殴る様な感情表現の数々を繰り返すだけなのだ。僕は最悪だが、別の世界の自分が思ったかも知れない事と、今この僕が思ってる事のどちらがマシだろう。僕が比較しているのだから、どちらでも良さそうだ。そうではなく、どちらも良くなさそうだ。否定形に取り憑かれた僕だからだ。少しはものを考えているのだろうか?同じことを違う言葉で言い換え続けてるだけなんじゃないか。抽象的な理屈を文の始めに置いて、結論は同じだ。僕の抽象は考える事や感じる事そのものについてであって、僕自身が考える事や感じる事に向き合う事を回避する。無内容だ。無意味だ。僕の言う事は全て同じだ。この文章も同じだ。僕が言いたいのは要するに、何も言う事なんてない、何も言うべきではない、という事じゃないか。もはやそんな事には飽きた。僕の中には多様な感性などない。何を見ても同じだ。呪われた還元主義者だ。純粋じゃないのだ。見ていやがれ。今それを証明してやる。何か言ってみろ。何か名指してみろ。ほらお前、あれは何だ。お前だ、お前。あれが何だか言ってみろ。そう、あれは《死と乙女》だ。正解。実に簡潔な答えだ。それでは、その隣のあれはなんだ。《死と乙女》。また正解。そうだ、分かっているじゃないか。じゃあ、そのまた隣のあれは…。

暴力表現

 フィクションを仮構し、無秩序の中で、人々の意志に纏まりを持った方向付けを与える事を創造行為と呼ぶならば、現代に於いて、数え切れないほど生み出された「方向」は、もはや根拠も必然性も持たず、観念の数々は全くフラットな水平面上での、趣味や慣習からなる価値観の「座標」でしかなくなる。

 例えば理性中心主義と、それに対抗する、ある種の「低いもの」、理性が排除して来た諸概念の存在、血や刑罰などの暴力性、蜘蛛や驢馬などの歪な生き物、人間達同士の埋める事の出来ない隔たり、激烈な攻撃性、不安をそそる不定形との対立は、今となっては完全に実質を欠いたものとなっている。そんな構図にはノスタルジーさえ感じてしまう程だ。我々が生きる時代では、暴力は平凡な属性の内の一つでしかない。「刺激的な表現」は退屈の代名詞と言って良く、暴力、そして死さえも、相対的な慣習や趣味の一形態へと衰退している(僕はそうした感受性を暴露する表現の先駆としてマネの絵画を思う)。倦怠感による感情の支配は今に始まったことではない。

 暴力は、それが期待されざる事故でなければ役に立たない。人間は暴力をそれと知らない内に待ち望んでいる生き物かも知れないが、しかし、この場合の暴力がイコール血みどろの表現であるというのは間違いだ(もしかしたら昔はそれで良かったかも知れないけれど)。暴力とは予測に対する裏切りであり、思い込みの解体でなければ効力を発揮しない。要するに数々の魅惑的なイメージは本来ただの餌であるべきなのだ。しかし我々は何かしらのイメージを介さなければ想像力の転換を成す事は出来ない。暴力的なイメージは日常という空間に対立する格好の方法として、これからも生み出され続けるだろう。しかし我々の目を本当に覚まさせる様な暴力表現の可能性は、全てが見世物の様になった世の中に於いて、趣味性の共同体がますます細分化されると共に、減退して行くだろう。

 

 なんて事をミヒャエル・ハネケ監督の映画を観て思っていました。

 

表象

 たとえ世界がフィクションであってもフィクションの中に様々な感情の居場所を見付けられるという事自体を尊重しなければならない、と思う。というのも、それ以上のものは何処を探しても見付からないからだ。幸福や不幸のイメージによる諸々の価値観、即ち物語は本人の意図に依らず自動的に形成されてしまう。幸福の表象(例えばお金持ちになるとか)は個人の生理的な充足感と一致している場合もあるので、それを虚構として相対化したとしても、執着こそ消えども苦痛自体は、生きている限り消えてなくなる訳ではない。例えば飢えという苦痛が食べ物を求める時、御馳走の表象がフィクションでしかないと知っていても、とにかく食べない事には充足は与えられず苦痛はある、という風に。人間の作り出す物語は多様なので、ある個人の心の平安や充足にとって適切に機能していないものもあれば、食べ物の様に(ほぼ)確実に機能しているものもある。その「確からしさ」は偏に経験によって与えられているに過ぎない。表象は全て何かしらの意味でフィクションであるが、我々が表象を通してしか世界と関わる事が出来ない以上、現実/虚構という対立は何の役にも立たない。例えばある人にとってお金持ちである事が他者より優れている事を意味しており、その人が他者よりも優れていたいと望む時、飢えに対する食べ物への欲求が誤りであるとは言えないのと同じ意味で、この場合もそれが誤りであると言う事は出来ない。何故なら人より優位に立ちたいという欲求は彼にとって飢えと同じ様に現実そのものだからだ。その様なやり方を間違っていると思う時、我々は別の物語を参照しているに過ぎない。即ち人より優位に立っても人の心は本当に満たされはしないだろう、という物語だ。しかし現実を変えるのではなく、内省によって心に抱いてしまっている物語の枠組みを変える試みは、数々の尺度の否定による平安という、幸福論の一つのやり方以上のものではない。個人の内面的な経験を直截に他者に伝える事は出来ないので、その効用が論証によって条件付けられるという事はない。僕の見ている赤色が他者の見ている赤色と同じ質感であるか分からないという事と同質の問題だ。尺度の解体によって齎される一種の平安状態は、それが既に起こっている個人にしか理解されない。また人間がある特定の方向へ向かう選択をする時、それ自体一つのフィクションへの根拠のない欲望に依る他ないし、予め(どの様な人間性を獲得するかという)結果を予測する事が出来ない為に、選択はその時点に於ける直感的な飛躍として行われざるを得ない。正当化された方法など決して存在しないのだ。現実と虚構の対立は無効となり、真理の表現は行為遂行的な信仰告白となる。それは他者をただ「誘惑」するのだ。全く無根拠な愛着だけがその発端となる。それしかやり様が無いのだから、それで構わない。それが出来る事を尊重しなくてはならないのだ。こう考えるのも僕が尺度を否定する立場の人間だからであり、それが僕の感情の居場所であるからだ。もはや取り替えの効かない、巻き戻す事の叶わない居場所なのだ。それ自体もまた偶然的な結果に過ぎないと思う。

 或いは僕が言いたい事は、他人のエゴイズムを否定しようとする事はエゴイズムである、という反省であるかも知れない。

シモーヌ・ヴェイユの悲劇と詩

 ヴェイユにとって、詩、即ち美の発見には恥辱、悪による実存の引き裂きが必要である。美とは我々をうっとりさせるだけではなく、現実の不条理と命の恐ろしさを見せ付けるものでもあるのだ。古代ギリシャでは悲劇が最も美しい表現とされた。何故ならばそれが「本当の事」を語っている様に見えるからだ。悲劇は世界に不条理な苦しみがどうしようもなく存在してしまう事を伝え、それによって傷を負った人間を慰める事なく肯定するのだ。リスクの無い世界では、人は人格の何たるかを理解する事が出来なくなる。悲劇はそうした安住に亀裂を入れるのである。我々は信仰心や、愛する恋人や美味しい料理など、好ましいものが目の前にある時には、それを柱として価値観の中心を支え、諸々の事物を関連付けて生活を意味付ける事が出来る。好ましいものに囲まれている時、我々は自らの執着やエゴイズムに気付かない。悲劇が体験させるのは、そうした意味関連の連鎖の破れである。ヴェイユが用いる「キリストの磔刑」の比喩に代表される「なぜ私が」という嘆きは、自らの所有物への執着やエゴイズムの自覚であり、それを消し去る為に必要な儀礼である。その瞬間、世界は剥き出しの無関心を持って致命的な牙を剥くだろう。しかし皮肉な事に、世界が思い通りにならないという不条理の現れこそが、世界の実在感を我々に伝える唯一の方法なのである。予定調和の世界に我々はリアリティを感じる事が出来ない。であるから、目を背けたくなる残酷な悲劇こそ、我々に真実を伝える表現である。しかし同時に真実は我々を焼き尽くす程に危険なものだ。

 取り返しの付かない悪が現実に存在する。もしそこに美が存在しないならば、悪を被った我々の心は耐えられず、他者に向けて攻撃性を発露させるか、それが無理と分かると自らの世界の表象の方を傷付けてしまうだろう(この場合、本来なら素晴らしい筈のものが自分を侮辱している様に感じられる様になる)。それでも持ち堪える事が出来なければ、気が狂うか、すっかり堕落してしまうかするだろう。しかし幸運にも、まったくもってそれは幸運なのだが、美はやって来る。我々は不幸を被った人間の生を真近に垣間見る時、虫ケラを見るようにして嘲笑う事などしない。また、可哀想だと思って同情するのとも違う。我々はそこに生の全的な輝きを認める。何故その様になっているのか決して分からないが、一切の起こり得る事を誤魔化さずに直視する時、極限的な苦難の最中、これ以上なく低い地点まで魂が落ちる時、神秘的な誘いの風に乗って美は立ち現れる。ヴェイユの「神など存在しないと思いながら祈る事」「神を信じている者よりも唯物主義者の方が神に近い」というある種の撞着的な態度に示される様に、「なぜ私が」と問うその時、一切の賞賛や同情などの現実的な慰めはあってはならない。報いられる事のない悲劇。そしてそれを必然として受け入れるのだから、当然復讐など考えてはならない。すると運命に引き裂かれた実存の内部に、世界がただそこにあるという事実を受け入れる事の、新たな美が現れる。その為には、我々はただひたすらに自分自身の無力を噛み締め、恥辱の中で待つ事だけが必要なのである。

 僕はここで疑問を感じる。それはリスクの問題だ。こうした美の捉えた方は、人々を安逸の中に守るものである一般に考えられている善とは相入れない様に思われる。我々は普通、自らが思い抱いている安寧の日々を成り立たせるものを善と定義し、そこから逸脱する要素を悪と定義して切り離している。つまり普通、悪とは幻想を破るものである。しかしヴェイユが「悪が成されたという事によって善を愛する事」と語る様に、彼女にとって善とは悪の対となる概念ではなく、悪を包括する上位の概念である。それは決して不幸の体験が役に立つから愛せという意味ではなく、不幸があるという事を愛せという要求なのだ。この様にヴェイユに於ける真善美の概念は、不幸の体験によって分かち難く結び付いているのだが、同時にここにヴェイユの過剰なまでの厳しさがある。不条理による苦しみが避けがたい必然であり、そこから逃れようという思いさえ禁じる事が、それらを感じる為に必要な条件であるのだ。つまりここではゲーテが「涙と共にパンを齧った事がないものは…」と語る様な意味で(それを極限まで激しくした様な意味で)、悪に善が浸透するのだ。この様にして善悪の観念が解体されたならば、その後で現世を生きる我々は、如何なる方角を向く事が出来るだろうか。

 ヴェイユにとって美の出現には一つの意図されざる不条理が必要である。不条理を被った人間の表現として、美が存在しているのだ。これは一見して矛盾である。悪は常に意図の外部から生じて来る不条理としてあるので、悪を自ら求める訳にはいかないからだ。もしユートピアを想定してみると、そこに美は存在しないだろう(恐らく真も善も存在しないだろう)。しかし美の感情がユートピアの人間の感情と比して、多かれ少なかれ悪を被る事のない人生は可能であるが、そうした過酷ではない生を歩む人間の感情と比して、優れているなどと言う事は出来ないのだ。ヴェイユの眼差しは一切の尺度が瓦解する特異点に向けられており、そうした考えもまた、一つのエゴイズムとして退けられる。つまりとにかくこの現実に不条理はあるのだから、その限りに於いて美を感じ取る態度や能力に価値はあるのだと、そう考えなければならない。でなければ美はすぐさまヒエラルキーへと転落してしまうだろう。そうなってしまえば、美はもはや純粋ではなくなる。

 しかし不条理の中でこそ現れる美を信じる事が出来るならば、(すぐに思い付くのがこの人しかいないのだが)岡本太郎の様に意図的に自らを苦境に落とす選択をし続ける事さえもあり得ない行為ではないのだ。しかし彼の行動を論証によって暴く事は出来ないだろう。平穏さの欺瞞に対する嫌悪によって引き裂かれ、不幸の他に居場所を失った彼の矛盾に満ちた実存を朧げに想像してみる事だけが可能である。彼に於いては自らの「主体性」こそが、逆説的に、まず何よりも「外部」からの不条理であったのだ。あるいは芸術家とはその様な人種なのかも知れないし、その様な人達にこそ美は相応しい様にも思えて来る。しかしいずれにしても現在の自己を許容するという自己肯定によってのみ、美は可能となる。

 ヴェイユは飢えた人々にパンを施さずにはいられなかったが、それは彼女が施しを普遍的な観念としての善なる行為であると考えての事ではなかった。彼女は自らの内なる声に従って、そうせざるを得ないと判断したから、そうしただけである。それは極めて《私的な善性》なのだ。しかし所有や執着の願望を離れ、自己と世界の関係を注視した結果、施しをしない訳にはいかないという確かな気持ちが芽生え、その行為が可能になるならば、それは一つの善であり、また一つの必然である。《私的な善性》は、完全に意図の外部から訪れたのでなければ、虚偽となる。その様な純粋に内発的な行為には確かに美があるのだろう。一体、そうした自然な感情以前に遡る、抽象的な論理などあるだろうか。一つの論理を採用する事さえも、その根拠は彼の主体性に還元される行為であると言うのに。そして自分が自分である事さえ、自ら意図した事ではない。全て起こり得る様に起こっているのであり、それらは全て究極的に許されている。行為を抽象から決定する事はどうしても出来ない。言葉は単なる道具でしかないのだから。

 ヴェイユは我々がどれ程の不条理に晒されようとも、自らの不幸を凝視するならば、一人一人の心に何らか神秘的な仕方で転回が起きる事を信じているのであり、我々に指標を与えこそすれども、個人の生と行動を方向付ける内なるエネルギーを、論証によって定義付けようなどと意図してはいないのだ。だからヴェイユはその変化を、ただ恩寵と呼ぶのだ。ヴェイユの言葉は他の全ての価値の創造行為と同じく、一つの飛躍であり賭けである。だがヴェイユの思想は形而上学によって倫理を基礎付けようとした多くの哲学者よりも、遥かに冷徹に論理的である。その上で、ヴェイユは哲学者である以上に詩人であるのだと僕は思う。(僕は全ての表現は詩であると思っている人間だけれど。)

 

 

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