空中散歩

 相対的に幸せになって、偶然的な価値を追い求めて、それで良い気分になって、良い気分になる事で良い気分になれるだろうか。あの子供は絵を描いているけれど、もし視力が奪われてしまったら。誰からでも、何でも奪い取る事が出来る。当然の様な顔をして、状況に依存している人間の張り付いた笑顔が気持ち悪い。誰もがある状況を少なからず普遍的な価値だと思い込んでいるから、僕は窒息しそうだ。僕は彼らが望むものを何一つ手に入れる事が出来そうにない。だから僕は考える。状況に左右されない言葉を考える。だけど人々を観察していると、どうやら幸福を目指している人は、幸福を目指す人なので、幸福を目指す事しか出来ないらしいという風に見えてくる。無駄な同語反復が何かの手掛かりを残す。僕は人間の不遇を追求した結果、可能な限り平等である様な思想を手に入れたと思っていた。それは相対化だったり、瞑想だったり、運命愛だったりもした。及ばない力によって結果の伴う判断の可能性が奪われると、人は観念的になるのだ。だけどそれさえも偶然性に依る結果でしかなかった、と僕は愕然とする。じゃあこれは何だったんだ。僕は何処に向かって、何を見つけたんだ。もし目に見える幸福が手に入らなくても、自己を受容する方法はある。成る程、立派な事だ。だけど例えば僕が頭を打って、罵詈雑言しか吐かない人間になる可能性は容易に考えられる。僕が僕じゃなかったら、僕みたいに感じない。現実的な価値を可能な限り排除して、純粋な価値を見出そうとしていたのに、そもそも知性なんて当てにならないものだった。考え方なんて、美貌や学歴や年収と同じ位、外面的な要素でしかない。それ自体に何の純粋さも特権性もないのに、何故か都合良く自惚れさせてくれそうな見かけをしていたから、騙されていたのだ。別にそんなもの、なくても構わないのだ。現に僕じゃない人が沢山いるのだから。そして僕が僕じゃない人だったとしても、それはそれで一向に構わないのだ。だとすると誰もが平等という事であり、僕が何も考えかったとしても、今見えているこの真っ白に開けた空間に、変わる事なく存在していたという事だろうか。考える事は徒労だったのだろうか。そうじゃない。考えなければ僕はこの僕ではなかった。にも関わらず僕が考えた事なんて、全く、これっぽっちも、何でもなかったのだ。狂人と話す自分を想像すると、自分の方が狂人だと疑わしくならない理由はない。僕は狂人の事を考え、狂人の気分になってみる。そういう訳なので僕はよく、全てが詩である、という言い方をする。だけど全てが個人的なポエジーでしかないと思う事もまた、何かを説明しているのではなく、僕が今現在の僕を安定させる為に拵えた世界観でしかない。という事になると、何が重要なのか。かつて状況と呼んでいたものとの対立は壊れてしまった。生きる事なんて重要ではない。本当の事を言うと、僕はもう生きているのでもないらしい。ただ、そうした状態であるだけらしい。ある状態からまた別の何らかの状態へ。名前なんてない。当然、それさえも奪われるかも知れないという直感は、変わる事なく無限に僕の先を進んでいて、絶対に追い付く事は出来ない。安全など少しも保障されていない、危険極まりない足場に僕は辛うじて、僕と呼ばれている何かとして立っている。そこから一歩でも足を踏み出すと、全身は宙に放たれる。仕方がないので、孤独な浮遊感を楽しむ事にする。それさえ奪われてしまうまでの、ほんの少しの間だけ。

蓋然性とか

 知識の説明や概念の整理をわざわざ自分で言語化しようという気力がさっぱり湧かない。好きな本とかアニメとか音楽について熱く語るのも何だか面倒くさい。理想としては、もっとメタフォリカルなイメージで一気に全体を分かった気になりたい。きっと僕の情けない記憶力とか一度に扱える情報量の乏しさがそうさせている。それから怠惰な性分。ただでさえ荒い世界の画素数がさらに落ちて行く。知識はそれなりにあった筈なのだけど、使わないから全て忘れた。有用性に興味がない。だってそれは道具的な利便性でしかないからだ。僕が言語化したいと思うのは、平安とか静寂とか、極めて茫漠としたもの。生きる事。自分に納得する事。詩や宗教の次元の話。そういう納得がどういう意味の納得なのかさっぱり分からない。それで何を理解したと言えるのか僕には分からない。音楽と同じで、有意な情報量として無であるにも関わらず、有用性の全体を追従させている何かを意識していたい。そういうものは出来るだけ勉強とは区別したい。知性的になりたくない。この現実で上手くやって行く事とは切り離したい。漠然と少しずつ純粋になりたい。

 

 哲学は少しずつ進めているけれど、直感的に気付いていたものを確定してくれるだけで、特に冒険という気はしない。どこか答え合わせみたいな感じがする。勿論ぼんやりと広がっている意識に厳密な言語で焦点を与える事は、僕にとってかなり必要な事だ。限定してくれないと、どこにも進めなくなってしまうから。それとも本当は、新しい視野を確かに獲得しているにも関わらず、偉そうに「それはそうだよね」とか思ってしまっているのかも知れない。分かってしまったら次の瞬間には自分にとって自明の事になってしまうし、僕は自分の情動の流れを因果的に把握するのがとても下手なので、ありそうな話。そもそも物事を理解したと感じる事なんてその程度のもので、知性というのは極めて隠喩的な直感として定義されるべきなのかも知れないけれど。

 僕は「こんな経験をしたから、こういう知見を得た」などと言うのが苦手だ。本当にそうなのかと疑ってしまう。だから僕は直接経験の言語化を嫌う。気付きに関する直近の出来事を原因に仕立て上げてるだけではないのか、或いは安易な物語をでっち上げてるだけではないのか、という気がするので。僕は出来事と内面の間にいつも隠喩的な距離を求めている。「こんな事があったから僕は怒った」とかも同じで、そこに「だから」という接続詞は本当は存在しないのでは。「こんな事があった、僕は怒った」とだけ言うべきなのだ、と思う。だけどそんな下らない拘りの所為で、酷い混乱に突き落とされる事がある様なので、程々にした方が良い。割りに合わないので。僕は不可知の領野に意識の焦点を集中させて、勝手に疲れたりウンザリしたりしている。そもそも人間の意識なんて得体の知れないものを合理的に説明する事は不可能なので、何かを原因として決め打ちする事が、象徴的な仕方で機能すれば良いだけだ。例えばエディプスコンプレックスの理論体系も、人が誰かに水を掛けられてイラつく事も、同じ様に確かではないのだから。

 適当さ、都合の良さ、ある程度の思考停止、ここから先は想像しなくて良いという線引きに困難を感じる。いざ考えろと言われると何を基点にして考えたら良いものなのか分からなくなる。出来事と意識の間の因果関係を蓋然的に決定する事に躊躇いがあるので、器用に生きる上で有用な法則を形成出来ずにいる。僕は処世術を上手く理解する事が出来ない。僕が「他人の心が分からない」という気持ちを人よりも強く感じている(っぽい)のも、こういう所に原因がありそう。だけど手に持っている物を離したら地面に向けて落下する事も同じ様に確かではないので、考えてみれば人の心に限定した話ではない。この場合、重力の説明は何の意味もない様に思われる。だけど僕達は確かさを目的に生きているのではないのだから、何が言いたいかと言うと、人間は事実に触れる事は出来ないが、事実は想像してみる事さえ出来ないのだから、自分が認知している利用可能な解釈を事実と見做す事を否定しても仕方がない、という感じになる。説明というのは何処までも分かった気にさせてくれるものでしかないけれど、僕達は分かった気になっている事しか分かっていないのだ(何を言っているんだろう)。無知の知は自らのシンボル体系の外部を常に想定するという形而上的な態度でしかない、と思う。「事実には触れる事が出来ない」と言う時、それは事実なる物の実在を暗黙に了解している。だからこれは意識経験の場に於ける正確な表現ではない。「人間にとって触れる事が出来る物だけがまさに事実なのであり、人間はこの事実性が更新または複数化される様を目撃するだけである」という感じが妥当だと思う。

存在しない風

 春の風の柔らかい悲痛さ。別に感傷的になるつもりはないけれど、感傷の方は勿論そんな事は気にせず僕の体腔に侵入し、具体的な記憶を想起させるのではなく、匿名の記憶の反映となって嗅覚の奥で風景を広げる。

 

 言葉の消滅。沈黙。世界との接点をどこに求めれば良いのか分からず、根を断たれてしまった。自分とは関係のない知識が自動的に細分化されて行くだけ、という感覚。世界はとんでもない速度で動いているらしいと、無数の記号の群れが告げている。様々な言葉や形象は誰かの意思の現れでもない純粋な言葉遊びとして、ふわふわ宙に浮いたまま、煙か何かの様に僕の身体を通過して行く。存在しない風が吹き、振り返ってみると、ついさっき視界に入ったものや、それについて漠然と思った事が、もう思い出せない。

 

 理由も分からず様々な対立が消え去る瞬間があるが、この感覚を精彩に記述し説明する必要も、僕自身がずっと記憶し続ける必要もない。言葉を扱う事は熱意や義務の表明ではなくて、自分の内面を様々な遊びの場にするだけの事なのだと感じている。理由より先に気分があり、気分より先にあるものは僕の手から零れ落ちる。束の間の愛着。相変わらず同じ事ばかり言っていて、文体や比喩の変化が、ほんの少しだけ差異の痕跡を残す。どれが本当の自分かなんて、そんなものはない。

 

  何も押し付けたくないけれど、押し付けるほどの思想なんて持っていないから、判定したくないと言えば良いのだろうか。内省して、結論を先送りにしたい。哲学者の態度。でも生きる以上は仕方ない。仕方ないと感じる事自体が、どこかに都合の良い幻想を求めている印かも知れないけれど。僕が何かを良いと思ったり醜いと思ったりする事自体、僕の意図を超えているのだから、僕は何故だか知らないけれど僕で、僕の見る無意味な夢は、本当に底なしに無意味だった。

 

 精神を誰にでも共通する様な低い次元にまで引き摺り下ろす時に、他者の心を感じる。どんな人間でも殴られたら痛いとか、そういうレベルまで。人間は自身との類似性にしか共感しないし、そうやって人は、他者が同じ人間なのだと気付いて来た。だから例えば、殴られても平気な風な人がいたら、その人を理解するのは難しくなる。共感可能性が低いから。悪意もなく、無意識的に排除しようとするだろう。人間の感情なんて、それほど単純なものなのだ。他者を強く理解しようと試みるなら、他者との絆を取り戻したいのなら、もっと深く、最も単純で悲惨な、ある種の暴力的な地平まで進む必要があるのかも知れない。悲劇の効用。

 だけど、それでも実際に他者の心を感じられる訳じゃない。感じたつもりになれるだけだ。どうして人はそれを求めるのだろう。どんな不安から逃れようとしているのだろう。それとも単純に確かな快楽があるからだろうか。何故だが知らないけれど僕は味わいたいと望み、世界には驚くほど多彩な味わいが存在し、その奥や裏には何もない。まったくもって、下らないのかも知れない。だけど、とにかくそうなっている。人間がその程度の生理的な機構なのだという事を知りながら、他者という表象に本当に興味を持つ事が出来るだろうか。

落下

「ダメだ。頑張れば話が通じると思ってる所がダメだ。何となく良い気分になれる即席の慰めや愚痴でその場をやり過ごして、それを何らか深みのある思考だと思いながら自己肯定して日々のサイクルを乗り越える処世術、それがあいつが人生を賭けて堆積させた思想なんだ。そういう綺麗事が、あいつの持てる論理の全てだ。あいつはそれ以上の苦悩や内省は思わせぶりな虚偽か、別の世界の出来事だと心の底では思っちまっている。文学作品だって全く読んでない訳ではないだろうが、そこに描かれている様々な意識的探究は、あいつにとって実在の様に感じられる事はない。目の前や隣にいる彼、彼女がそれ程までの実存を兼ね備えているとは決して、決して、思いもしない。あいつは自分の観念の中で眠りこけているんだ。それがあいつの理解の限界だ。想像力の限界なんだよ。あいつに何を話そうが、いや、話せば話すほど、あいつは僕を、何かに影響されて訳の分からん事を口走り、思わせぶりな態度で気を引こうとしている人間だと見做すんだ。長々と言葉を尽くそうが、表情や身振りで訴えかけようが、何も言わずに黙っていようが、全てが同じ事だ。何故かって、あいつにとって僕が他者だからだ。あいつの能天気な世界観から逸脱する内面を持った他者だからなんだよ。あいつは僕の話を真剣に聞いている面をする。だが何も分かっちゃいない。何も通じちゃいないんだ。それが僕にはハッキリと分かるんだ。あいつの前では全てが滑ってしまうんだよ。吐き気を感じさせる同情的な目付きになるか、理解出来ない奴を軽蔑する目付きになるか、どちらかだ。だが実際あいつだけの問題じゃない。世の中の大人が子供を見る目なんてそんなものだ。全く恐ろしいほど薄っぺらい認識を基盤としていて、全てが虚飾だ。ああ、あいつの頭の中の低品質の観念に僕の人間性が吸収される。あいつが同意の身振りをしようが、反論の身振りをしようが、僕にとってはどちらでも一緒なんだよ。あいつは表面的な態度で相手を慰めたり一般論を提示して叱り付けた気になる事が、相手を満足させてやる全うな方法だと思ってやがるんだ。教科書か何かにそう書いてあるんだろう。恐ろしいのは、そんな風に薄められたコミュニケーションは、一旦身に付くともうどうしようもなくなっちまうって事だ。子供が相手の時だけじゃない。誰と話していても、もう相手の事なんて目に映っていない。薄っぺらな固定観念と、定められた空虚なやり取りを続ける自動人形だ。そしてそんな奴らに囲まれて生きている内に、本当に僕は自分を滑稽なピエロの様に感じてしまう様になってしまった。まともなフィードバックが行われるコミュニケーションが存在しない日常なもんだから、僕は自分らしい振る舞い方がさっぱり分からなくなってしまった。僕は人間を前にすると、自分が本物の気違いにしか思えない。別にあいつの人生を否定はしないさ。でも、自分にも分かる言葉で話せだなんて余りにも身の程知らずだ。あいつの身勝手なスケールで理解出来る言葉なんて、僕はこれっぽっちも持ってない。テレビで垂れ流される価値観があいつにとって一番違和感なく気持ち良く受け入れられるんだから、あいつは何かを知らなければならないと駆り立てられた事さえない。あいつは知性が劣等な訳ではないが、そういう状態でいくら勉強したって、手に入るのは空虚な知識のガラクタだけだ。今まで大した不条理を感じる事もなく生存出来てという事実に寄りかかって、自分の陳腐な感性を常識的だとか一般的だとか思ってやがる。いや、あいつが苦労してないと言う気はない。あいつが人間失格という訳でもない。まったく、ごく普通の善良な市民なんだ。それでも、あいつが自分の経験した不条理を得意顔で語る時の、余りにも下らないあの話…何度も聞かされた…小学生だって虐めでも受けてる子なら、遥かに迫真を持った経験を語れるさ…聞くたびにいつも殺意を覚える。本当にケチで下らない話だ。あいつを少しでも話が通じる人間にしたいなら、あいつの言語世界を崩壊させる様な事故が起きる事を祈るしかない。だけどそんな事、僕は望んじゃいない。だから僕はもう、コミュニケーションを諦めるんだ。実際の所、到底無理なコミュニケーションなんて気休めの和平と比べたら、何の価値もないんだ。僕らはそもそも別々の人間なんだからな。」

 「それじゃあ君も同じ穴の狢じゃないか。やっぱり、遺伝だね。」

異邦

 社会的、一般的に浸透しているコードと個人的な価値観の一致は偶然であり、言うまでもなく、この一致が正確であればあるほどマジョリティとして社会に違和感を感じる事なく生活する事が出来る。しかし社会的なコードから逸脱した主観の持ち主は当然、自らの意思を押さえ付けて生活している。自らの主観を社会的なコードに乗せて表現しようと試みる事は人間の普遍的な欲望であり、また社会的に生存する為にも必要不可欠な営為である。生得的な感性や刷り込まれた言語感と、社会的な規範との間に断絶を被った事のない人間は、「自分自身の言葉」なるものが存在しているかの様に振る舞うが、実際には全ての言語は他者のものだ。他者のものである言語によって自らの主観を位置付ける事が、人間性の回復に繋がるのだと僕は思うのだ。しかし誰もが無意識的に、そして矛盾なくそれを達成出来る訳ではない。(この意識と世界の一致を試みる探究は果てしないものだが、今回は社会性に関する議論であるので遠慮する。)全ての表現はその意味で治療であり、防衛である。

  僕はアルベール・カミュの『異邦人』を思う。『異邦人』の主人公ムルソーの倫理的な振る舞いに対する徹底した「無関心」は、彼が卑屈である事も冷血である事も意味していない。そう判断するのは周囲の社会的規範を纏った常識人だ。しかしムルソーの様に確固たる自我を確立する事はそれだけでも困難を極めるのであり、多くの場合、少数者とは虐げられ翻弄させられる弱者である為、現実はさらに厳しい。或いは正確にコードを学習し礼儀正しく愛想の良い仮面を被っているが、内心では気味の悪さや下らなさを感じている人もいるだろう。そうした人の外見と内面のギャップに触れて「捻くれてる」などと思うのは勝手だが、問題の中心はそこまで単純な話ではない。いずれにせよ、多数者の意見によってある個人を短絡的にカテゴリーに放り込み、本質的に多様な人間性を目に見えない様に歪めてしまうのは、典型的な差別の手法である。

 例えば自らの意見を表明せず、現実的な判断を下さずに逡巡する者を、何らか劣った人格と見做す時、我々は社会的規範の権威化を無意識の内に行ってしまっている。しかしある価値観の表明が個人的なものであると認識しているならば、主観的な価値評価を存在論的に脚色する事は欺瞞である。抽象的で純粋な思考は、実践的で具体的な地平に於ける如何なる価値の基盤も導き出さないし、ある一つの基準に権威を与えてしまう事は思考に於いては注意深く退けられなければならない。他者の特定の振る舞いを否定する事は構わないが、それは自分自身の主観の名の下に、実践的な地平に関して為されるべきである。体系から価値判断を抽出可能であるかの様な身振りは思考に於いて適切ではない。(端的に言って、「劣った人間は〜である」と言うべきではなく、「〜な人間を私は劣っていると見做す」と言うべきだ。)

 芸術や哲学の上ではともかく、或いは多様化する趣味性の共同体内部に於いてはともかく、広い意味での社会に於いて多様性は厄介な不和の原因であり、その理解は十分に達成されているとは言い難い。少数者の多くは自らの価値基準が社会的に認められるものではない事を知っており、特に共感する事もない一般的なコードを知性的に学習する事で生活を営んでいるのであるが、その事は彼らに一貫した思想や強度のある実存が欠如している事を意味するのではない。その様な人間は傍目には他者の意見に従順であると同時に一切に無関心である様に見えるだろう。ある文脈に身を浸している人間の主張は、文化人類学者の様に文脈を学習している人間にとっては、全き相対的な価値しか持たないからである。そこには心からの賛同や非難が生じる余地などない。「他者である」とはそういう事なのだ。そしてその隔たりは基本的に埋まる事はない。「他者性を認める事」とは他者が絶対的に隔たっている存在であるという事実を認める事であり、他者と分かり合えるという希望の否定である。

 また、実践的な地平に於ける無関心が、自らの人生に対する責任の回避として捉えられている様をしばしば目にするが、責任という言葉の使用に関する誤謬が発生している、と思う。行為者の社会的な責任は彼の所属する社会のシステムによって決定されるのであり、それは彼の実存とは直接的な関係を持たない。人を殺せば警察に捕まるが、人を殺しても良いと思ってしまっている事は個人の自由だ。全ての人が社会的に適用されている倫理コードを内面化しているとは限らない。そして特定の倫理コードを絶対視する人間とは、それを内面化している人間である。そして『異邦人』のムルソーは、コードを内面化していない存在者として表現されている。責任という言葉は社会を円滑に回す為に機能する概念として必要なのであり、その限りに於いて自由意志を持った個人が設定され、そこに責任の所在が求められるが、その事は現実が本来的にコントロール不能である様を否定する訳ではない。社会的な実存と、世界に投げ出された一人の人間としての実存を混同し、責任という語によって一括りに断罪する態度は誠実ではない。

 価値基盤が解体されたゼロ地点に到達する事は、個人的な自己実現の方向性と如何なる関係も持たない。それは純真たる内発性と主体性の獲得の為に必要ではあるが、その後でなら、立派な人格者になろうが、一芸を極めようが、何もせずに自殺しようが、何でも構わないのである。やはり大衆的なコードと自らの感受性が一致すると気付く事もあれば、逆に全く手の打ちようもない事もある。それでも人は平等に許される。どれだけ最低な人間であっても許されるのだ。だが何も与えられはしない。数々の人格的美徳、数々の処世術、数々の能力は与えられはしない。都合の良い事は何一つとして起こらない。そうした事柄はもはや意味を成さない。水準というものが失われるのだ。彼はただ許されるだけだ。主体的な意識の獲得とは、また『異邦人』に描かれる「優しい無関心」とは、そうした地平の出来事である。

みんな夢

 かなり虚しいので何も思わない。自分の単調さにうんざりしている。どうせ何も出来やしないという不安。自分が過ちを犯しているという不安。同じ不安が繰り返されるが、何も感じていない事。絶望や目的を感じない事。自分自身の言葉が誰の役にも立たず、世間的にも褒められた事は何も言えないという事の気疲れに、僕は疲れている。抽象化したくないので感覚的になる日があり、今日がそれだ。僕は明日には正反対の意見になるかも知れない事を書くのに習慣的な嫌悪感を覚えるが、継起する感情を纏め上げる事に虚偽を感じている。感覚は流れ去り、僕は自分を見失うが、全ては喪失なので、自分を見失わないものは存在しない。

 

 人間に親しみを感じず、好意を抱く事が出来ない。いつも自分を余所者に感じる。というのも、人々が集団となる時の、薄ぼんやりとした、柔らかい偽りの優しさが、人から人間性の何か厚みの様なものを剥ぎ取って、希釈された言葉と笑みが空間を包み込むからだ。緩やかな欺瞞。誰も他人を見てはいない。もちろん、これは甘美な日常の理想的なイメージの一つであって、多くの場合、数々の打算や欲望からなる、刺々しくうんざりさせる困難が一つ一つの応答に絡み付いている。しかし、僕はそうした事を煩わしく思うべきではないのだろう。正確に知る事なく解釈し、正確に知られる事なく解釈される事で現れる影像に、自らの実存を意図的に重ねる気苦労。だけど、この世界ではどうしたって、見られた者は皆、他人の夢になるのだ。苦痛が安らぎよりも真実の様に感じられるのは、まだ現実と虚構の区別が上手く付けられていない者だけだ。何故なら全ては夢なので、我々に出来る事は、都合の良い夢を見るか、都合の悪い夢を見るか、都合の良い夢と知りつつその夢を見続けるか、それとも……

麻痺

 扱っている言葉を変えたい。ここにいたくない。言葉を変えるのではなく、経験の方を変えたい。感覚その物を。僕の本質は自己を否定し続け、停止する事だ。それ以外には特に何の要素もないので、別人になったって構わない。全ての自分の感情を冷笑する人間が脳裏に住み着いている。そいつによると、僕の思考は僕の思考であるという理由で却下されなければならない、との事だ。何一人で舞い上がってやがる。こいつを上回る方法はない。自己否定に限界はないからだ。無視する方法はあるが、僕自身よりも僕自身なので無視できない。癒す?癒すと言っても何を?僕に感傷の権利はない。幼児退行して泣き言を言うのも嫌だ。吐いた言葉を全て自分で塗り潰さなければならない。書いた言葉を書かれたという理由で消さなければならない。僕はいつまでも逡巡する。逡巡は痙攣になって、その震えは細か過ぎるので、傍目には止まって見える。みんな死ねば良いと思う。いや、思わない。何も思わないから、思わない。倫理からではなく、思う事自体を抑圧しているのを肌で感じるので、思わない。思う事をしている人に嫉妬するが、嫉妬しない。相対的だからだ。僕が思っている事はかっこ悪いが、何も思わない事はかっこ悪い。僕だからだ。僕は自分が気持ち悪くてしょうがないが、自分を気持ち悪いと思う事もまた気持ち悪い。そう、これは自分が感じている事に対する違和感なのだ。違和感だけが真実であり、あとの表現は何かしら決定を下してしまうから、違和感の餌食になる。違和感こそが感覚の中の感覚だ。感覚の王。僕は結局、子供が書き殴る様な感情表現の数々を繰り返すだけなのだ。僕は最悪だが、別の世界の自分が思ったかも知れない事と、今この僕が思ってる事のどちらがマシだろう。僕が比較しているのだから、どちらでも良さそうだ。そうではなく、どちらも良くなさそうだ。否定形に取り憑かれた僕だからだ。少しはものを考えているのだろうか?同じことを違う言葉で言い換え続けてるだけなんじゃないか。抽象的な理屈を文の始めに置いて、結論は同じだ。僕の抽象は考える事や感じる事そのものについてであって、僕自身が考える事や感じる事に向き合う事を回避する。無内容だ。無意味だ。僕の言う事は全て同じだ。この文章も同じだ。僕が言いたいのは要するに、何も言う事なんてない、何も言うべきではない、という事じゃないか。もはやそんな事には飽きた。僕の中には多様な感性などない。何を見ても同じだ。呪われた還元主義者だ。純粋じゃないのだ。何か言ってみろ。何か名指してみろ。ほらお前、あれは何だ。お前だ、お前。あれが何だか言ってみろ。そう、あれは《死と乙女》だ。正解。実に簡潔な答えだ。それでは、その隣のあれはなんだ。《死と乙女》。また正解。分かっているじゃないか。じゃあ、そのまた隣のあれは…。