フィクション

 物語作品の中の他者は、もうその時点である同一の世界観に所属させられる事で歪められた他者であり、恐らく物語というのは他者を都合良く解釈可能にする場を出現させる装置なのだ。それは他者と真に隔たっているという事を表現する形式ではないのだろうと感じる。しかし恐らく物語世界に限らず、現実でもある共同体が成立するとその内部では一つのフィクションが生じ、その内部で様々な表現が演じられるのだろう。そこでは物語作品でそうある様にして他者が都合良く仮構され、物語作品は全体としてその模倣の対象として、一つのモデルとして機能しているのだろう、と思う。物語という形式自体が、理解不能な他者が適度に都合の良い他者へと変換されるマジックが現実に起こり得る事から生まれた筈だ。物語とは他者との出会いを前提として創作されるものである。だから現実に成立する共同体に見られるフィクション性は、物語世界内での歪められた他者像の持つそれと、一致している筈である。物語世界内での意思疎通の齟齬や軋轢は、現実に他者との間で起こるそれと比較すると、隔たりの質というか、齟齬や軋轢の起きている次元が違う様に感じる。

 物語作品の鑑賞に於いては、気兼ねなくキャラクターに感情移入する事が出来るが、それは物語世界が人間によって創られた世界だからである、と思う。作者の現実認識に共感するかどうかは別の話として(少なくとも鑑賞中は)切り離して置く事が出来る。現実ではこの二つの地平が重なり合っていて、感情を行使するべきであるのか分からない。現実に於いては感情的な判断は保留されるべきなのだろうと思う事が多い。こうした差異は、優れたフィクション程の説得力を与える事が現実では難しいからなどという理由で起こっているのではない。他人の感情に寄り添うためには、相手の世界観に寄り添う事がまず前提として必要なのだ。恐らく物語はその重なりを切断してくれる。まず統一された世界内部に存在するキャラに感情移入して、その後に作者の思想について批評するという具合に。共感にはこの順序が必要なので、初めからキャラを作者の観念に役付けられた存在と見做しては共感は発生しないだろう。世界観その物を疑ってしまうと、感情移入は発生しない。

 恐らく現実で感情移入を滞りなく発生させる為にその都度作られるフィクション性がある。異なる人物が一つの世界観に焦点を合わせなければ感情移入を成立させる事は出来ない。その目的は何らかのカタルシスの欲望に向けられる事もある。感情移入というのは物語的に現実を見るという事を前提にするのだが、ここには世界観の押し付けという暴力が不可避的な形である様に思われる。たとえばスカイクロラ草薙水素が、墜落した仲間の死に対して可哀想と涙を流した一般市民に「同情なんかするな!」と叫ぶシーンがあるが、そこで表現されている問題だ。ここでスカイクロラの世界観について詳細に説明する事はしないが、スカイクロラの世界に於いて、一般市民にとってキルドレ達の戦争は一つのフィクションである。フィクションは他者の内面を自己中心的に巻き込みながら解釈する装置であり、起こっている事をありありと認識するのを妨げる。と言いたいのだが、実際には「ありありとした認識」など何処にも存在しない。フィクションを現実に重ね合わせ、そこに他者を巻き込まなければ、何かを表現する事など凡そ不可能となるだろう。誰もが自分に「しっくり来る」フィクションを身に纏う事で現実を把握するのであり、良くも悪くもそれがフィクションの効用である。

  良く目にする言説に「他者と出会え」というものがあるが、その実質的な意味は、物語的に他者を解釈する事で自己を規定し直せ、という事でしかないのだ。それはある種マターナルな幻想や虚構と対(現実を見ろ)という意味だけでなく、むしろ全く逆の、他者が同じ人間であるとさえ思えない世界と対(幻想を仮構しろ)でもある筈なのだという実感がある。幻想が破れている人間に向かって幻想に没入してる人間が、フィクションを捨てろという逆のアプローチを取る誤謬は良く見受けられる。「他者と出会っていない」と一般に表現される関係には実際、他者がいない(内輪ノリ)と、他者しかいない(例外者)という両極があり、「他者と出会え」というのは、その点で「適度に都合が良く、適度に都合が悪い他者の間を揺れろ」程度の意味でしかない。それは他者と決して同一化する事が出来ない現実と、フィクションを仮構する事で成立する関係性の、バランスの問題である。余りにも内輪で安寧とし過ぎるのも、余りにも誰とも交流しないのも何かしら心身に不具合を齎す、と思う。一般論から言っても経験的に言っても、健全なバランスというのは確かにある様だ。しかし「他者と出会え」(それから「現実に帰れ」とか)などと言うと、何か実在の様なものに接触する事が可能であるかの様に聞こえがちだが、そんな事は原理的にあり得ない。フィクションは世界の至る所に浸透しており、「よりリアルな」世界の実在など(体感としてどう思うかは個人の問題だが)そもそも考える事すら出来ない。

シモーヌ・ヴェイユの悲劇と詩

シモーヌヴェイユの著作を読んで個人的に考えた事です。

 

 ヴェイユにとって、詩、即ち美の発見には恥辱、悪による実存の引き裂きが必要である。美とは我々をうっとりさせるだけではなく、現実の不条理と命の恐ろしさを見せ付けるものでもあるのだ。古代ギリシャでは悲劇が最も美しい表現とされた。何故ならばそれが「本当の事」を語っている様に見えるからだ。悲劇は世界に不条理な苦しみがどうしようもなく存在してしまう事を伝え、それによって傷を負った人間を慰める事なく肯定するのだ。リスクの無い世界では、人は人格の何たるかを理解する事が出来なくなる。悲劇はそうした安住に亀裂を入れるのである。我々は信仰心や、愛する恋人や美味しい料理など、好ましいものが目の前にある時には、それを柱として価値観の中心とし、諸々の事物を関連付けて生活を意味付ける。好ましいものに囲まれている時、我々は自らの執着やエゴイズムに気付かない。悲劇が体験させるのはそうした意味関連の連鎖の破れである。ヴェイユが用いる「キリストの磔刑」の比喩に代表される「なぜ私が」という嘆きは、自らの所有物への執着やエゴイズムの自覚であり、それを消し去る為に必要な儀礼である。その瞬間、世界は剥き出しの無関心を持って致命的な牙を剥くだろう。しかし皮肉な事に、世界が思い通りにならないという不条理の現れこそが、世界の実在感を我々に伝える唯一の方法なのである。予定調和の世界に我々はリアリティを感じる事が出来ない。であるから、目を背けたくなる残酷な悲劇こそ、我々に真実を伝える表現である。しかし同時に真実は我々を焼き尽くす程に危険なものだ。

 取り返しの付かない悪が現実に存在する。もしそこに美が存在しないならば、悪を被った我々の心は耐えられず、他者に向けて攻撃性を発露させるか、それが無理と分かると自らの世界の表象の方を傷付けてしまうだろう(この場合、本来なら素晴らしい筈のものが自分を侮辱している様に感じられる様になる)。それでも持ち堪える事が出来なければ、気が狂うか、すっかり堕落してしまうかするだろう。しかし幸運にも、まったくもってそれは幸運なのだが、美はやって来る。我々は不幸を被った人間の生を真近に垣間見る時、虫ケラを見るようにして嘲笑う事などしない。また、可哀想だと思って同情するのとも違う。我々はそこに生の全的な輝きを認める。何故その様になっているのか決して分からないが、一切の起こり得る事を誤魔化さずに直視する時、極限的な苦難の最中、これ以上なく低い地点まで魂が落ちる時、神秘的な誘いの風に乗って美は立ち現れる。ヴェイユの「神など存在しないと思いながら祈る事」「神を信じている者よりも唯物主義者の方が神に近い」というある種の撞着的な態度に示される様、「なぜ私が」と問うその時、一切の賞賛や同情などの現実的な慰めはあってはならない。報いられる事のない悲劇。そしてそれを必然として受け入れるのだから、当然復讐など考えてはならない。すると運命に引き裂かれた実存の内部に、世界がただそこにあるという事実を受け入れる事の、新たな美が現れる。その為には、我々はただひたすらに自分自身の無力を噛み締め、恥辱の中で待つ事だけが必要なのである。

 僕はここで疑問を感じる。それはリスクの問題だ。こうした美の捉えた方は、人々を安逸の中に守るものである一般に考えられている善とは相入れない様に思われる。我々は普通、自らが思い抱いている安寧の日々を成り立たせるものを善と定義し、そこから逸脱する要素を悪と定義して切り離している。つまり普通、悪とは幻想を破るものである。しかしヴェイユが「悪が成されたという事によって善を愛する事」と語る様に、彼女にとって善とは悪の対となる概念ではなく、悪を包括する上位の概念である。それは決して不幸の体験が役に立つから愛せという意味ではなく、不幸があるという事を愛せという要求なのだ。この様にヴェイユに於ける真善美の概念は、不幸の体験によって分かち難く結び付いているのだが、同時にここにヴェイユの過剰なまでの厳しさがある、と思う。不条理による苦しみが避けがたい必然であり、そこから逃れようとする事さえ禁じる事が、それらを感じる為に必要な条件である様なのだ。つまりここではゲーテが「涙と共にパンを齧った事がないものは…」と語る様な意味で(それを極限まで激しくした様な意味で)、悪に善が浸透するのだ。この様にして善悪の観念が解体されたとしたら、その後で我々は如何なる方角を向く事が出来るだろうか。

 ヴェイユにとって美の出現には一つの意図されざる不条理が必要である。不条理を被った人間の表現として、美が存在しているのだ。これは一見して矛盾である。悪は常に意図の外部から生じて来る不条理としてあるので、悪を自ら求める訳にはいかないからだ。もしユートピアを想定してみると、そこに美は存在しないだろう(恐らく真も善も存在しないだろう)。しかし美の感情がユートピアの人間の感情と比して、或いは多かれ少なかれ悪を被る事のない人生は可能であるが、そうした人生を歩む人間の感情と比して、優れているなどと言う事は出来ないのだ。ヴェイユの眼差しは一切の尺度が瓦解する特異点に向けられており、そうした考えもまた、一つのエゴイズムとして退けられる。つまりとにかくこの現実に不条理はあるのだから、「その限りに於いて」美を感じ取る事が出来る態度や能力に価値はあるのだと、そう考えなければならない。

 しかし不条理の中でこそ現れる美を信じる事が出来るならば、(ぱっと思い付くのがこの人しかいないのだが)岡本太郎の様に意図的に自らを苦境に落とす選択をし続ける事さえもあり得ない行為ではないのだ。しかし彼の行動を論証によって暴く事は出来ないだろう。平穏さの欺瞞に対する嫌悪によって引き裂かれ、不幸の他に居場所を失った彼の矛盾に満ちた実存を朧げに想像してみる事だけが可能である。彼に於いては自らの主体性こそが、まず何よりも「外部」からの不条理であったのだ。あるいは芸術家とはその様な人種なのかも知れないし、その様な人達にこそ美は相応しい様にも思えて来る。しかしいずれにしても現在の自己を許容するという自己肯定によってのみ、美は可能となる。

 ヴェイユは飢えた人々にパンを施さずにはいられなかったが、それは彼女が施しを普遍的な観念としての善なる行為であると考えての事ではなかった。彼女は自らの内なる声に従って、そうせざるを得ないと判断したから、そうしただけである。それは極めて《私的》な善性なのだ。しかし所有や執着の願望を離れ、自己と世界の関係を注視した結果、施しをしない訳にはいかないという確かな気持ちが芽生え、その行為が可能になるならば、それは一つの善であり、また一つの必然である。その様な純粋に内発的な行為には確かに美があるのだろう。一体そうした自然な感情以前に遡る、抽象的な論理などあるだろうか。一つの論理を採用する事さえも、その根拠は彼の主体性に還元される行為であると言うのに。そして自分が自分である事さえ、自ら意図した事ではない。全て起こり得る様に起こっているのであり、それらは全て究極的に許されている。行為を抽象から決定する事はどうしても出来ない。言葉は単なる道具でしかないのだから。

 ヴェイユは我々がどれ程の不条理に晒されようとも、自らの不幸を凝視するならば、一人一人の心に何らか神秘的な仕方で転回が起きる事を信じているのであり、我々に指標を与えこそすれども、個人の生と行動を方向付ける内なるエネルギーを、論証によって定義付けようなどと意図してはいないのだ。だからヴェイユはその変化を恩寵と呼ぶのだ。ヴェイユの言葉は他の全ての価値の創造行為と同じく、一つの飛躍であり賭けである。だがヴェイユの思想は形而上学によって倫理を基礎付けようとした多くの哲学者よりも、遥かに冷徹に論理的である。その上で、ヴェイユは哲学者である以上に詩人であるのだと僕は思う。(僕は全ての表現は詩であると思っている人間だけれど。)

 

 こっちもどうぞ。

http://bussitsu.hatenadiary.jp/entry/2017/04/04/211810

意思疎通

 僕は自分の思考や感情を少なくとも公共の言語によって順序立てて説明しようと思っている。しかし他者に於いてそれがどの様に受容され、どの様な考え方に落ち着くかは、僕の知る所ではない。異なる人間の意識との間に同一性を求める事は諦めるしかないのだと思う。結局の所、ある一人の人間の思考や感情は、生まれてから現在までに於ける凡ゆる資質と経験が混じり合うように関係し意図の外部で構築されてしまうのであり、他者に説明する時のように論理的な整合性を持った姿で形成されているのではない。我々は結果的に何故だかその様になっている思考や感情を、人間の理解力に即しているという意味で論理的な、それなりに単純な形式に乗せて事後的に説明を与える。その説明はどこまで行っても十全と言う事は出来ないし、内面は他者の目に見えないのだから、仮に正確に言語に落とし込む事が出来たとしても、その言葉を受容する人間の内面に、伝えようと思った思考や感情がコピーされる訳ではない。しかし気が付くと我々は順序を逆転させて、意識によって把捉し、言語によって仮構した世界が現実に即しているのだと錯覚してしまう。それは人間にとって都合の良い解釈でしかないにも関わらず。しかし人間にとってはその様に形式化された表現によってしか物事を理解する術も、他者に向けて表現する手立てもないのだ。だから個人の思考や感情を、その成り立ちや動機まで含めて伝える事は不可能である。こちらが尤もらしく口にした説明が、こちらが意図した様に他者に伝わったかどうかを確認する手立てはない。他者は彼の中で経験によって築き上げられた非言語的な思考や感情を(恐らく)持っているのであり、そこにどの様に新しい言語が組み込まれ、彼がそれをどの様に役立てるかは、表現者のコントロールの埒外だ。だから純粋な内面の一致というのは、それを正確に表現する時点で躓き、表現された情報が他者に伝達される事に困難があり、さらに伝わったという事を確かめる術がないという点で不可能なのだ。我々はどこまでも個人として存在しているので、他者との心的な合一はコミュニケーションの目的にはならない。そんな事が出来てしまったら、もうその相手は他者ではなく自分自身と変わらない。こんな風に原理的な不可能性を知っている事が、自意識(今感じているこの思いの事だ)を相手に伝達し、それによってお互いを分かり合っていると信じ込もうとする事の虚しさの理由なのだ、と思う。僕達は他者という、笑ったり喋ったりする表象を見つめ、そこに何か意味を見出して、勝手に気持ち良くなったり、不快感を覚えたりするだけだ。僕達は決してエゴを消す事が出来ず、他者は無限に不可知のままで他者であり、その隔たりに橋を掛ける事は出来ない。

 コミュニケーションの目的を上に述べた様な意味での自意識の伝達に据えるのは適切ではない。他者の内面性に関して、それは子供が遊戯を通して、お互いを知る事なく知る様な交流、一つの戯れとして捉える様なイメージを持つべきだと思う。そこでは特定のルールに従って遊びに参加する事が出来れば良いのであり、自意識を伝達しようなどという意図はない様に見える。そして我々が行っている言語的なコミュニケーションは、どこまで追求しても、子供の遊び以上に深みのある何かが起きる訳ではない。

愚者

 愚者は愚者の言う事にしか耳を貸さないし、愚者の言葉に共感し賛成する。その事に不満を言う訳にはいかない。人々は正しさを求めているのではなく、快い生活を求めているだけかも知れないのであり、基本的にその態度は否定されない。愚者が愚者の共感を求めるならばそれで良い。彼は社会性を獲得するためのエチケットを持っているのであって、それを批判する事は、正しいことを言っている自分を見ろという醜さに直結しているので不毛だ。そもそも(如何に幼児的なルールであれ)適応されているルールが異なるのであって、その事に不条理を感じるのは視野狭窄だ。条理とは世界の混沌の中から反復、即ち類似性を発見する事によって個々人が独自に生み出したパターン認識に過ぎず、本質的には全てが不条理である事を知る必要がある。そして自らの認識を普遍化しようとする執着を捨てる必要がある。ルールの幼児性を俯瞰する事は、幼児的なゲームのプレイヤーよりも高次な認識を行なっているという事にはならない。部外者である事は偉くない。俯瞰したならば、その上で上手く立ち回るか、或いはルールの改変を施す様な(たとえば他者の心に響く様な)表現を生み出すかしなければならない。正論などの力技では土俵にすら上がれないのだ。もちろん自分が適応出来ないコミュニティに無理に参加する必要など微塵も無いし、他者の心を上手く捉える事(空気を作り出す能力など)は技術的な問題であり態度一つで変えられる話ではない。一つ言える事は、ある特定の集団に於ける振る舞いを軽蔑するのは褒められた振る舞いではないという事だ。それは自らが課した価値基盤への執心だからだ。賢さや愚かしさがあるのでは無く、多様な人々と多様な生活が存在しているのだと思う事。正しさなどという価値の主張は、一つの階層性の持ち込み、即ちイデオロギーであり、それ自体として狭隘さを孕んでいる。何よりもまず生活があるのだ。

顔を失った

 この文章は以前色んな意味でとても疲れていた時に書き留めていたメモを纏めたものです。

 

 再び世界がネバつき始める。その理由が僕には分からない。一種の神経症なのだろうか。確かに極度に神経質になっているのを感じる。目に付くものが尖り、色彩は煩く、直視出来ない。通り行く人々の表情がべっとりと脳裏にこべりつく。顔だけじゃない。服の質感や、辺りの物音もだ。静物は不気味な生物の様で、風に揺れる植物は百の怪物の集合だ。結ばれたカーテンの中には生きた首が入っている様に見える。僕だってそんなイメージは非現実的だと知っている。僕はイメージを事実と混同してしまう混乱に陥っているのではない。僕は恐怖の「印象」について語っているのだ。一部の人が蓮や人形に恐怖を覚える様に、様々な物が不気味に、恐ろしく見えるのだ。昼間の方が特に酷いが、単純に時間帯に左右される問題なのか定かではない。夜は副交感神経が働くとか、知った事ではないが、確かに落ち着いている様に感じる。僕は静かな場所にいたい。僕の願う事はそれだけだ。静かな場所、だがそれは、物理空間上の特定の地点という訳では無いだろう。そんな場所は物達に溢れかえっているこの世界には、ほんの1ミリだって存在しないのだ。僕はどこに隠遁すれば良いのだろう。

 物には「光に照らされていない裏側」がある様なのだ。目を凝らしても見えないが、存在する事だけは知っている。それから物を見る僕の目、僕の認識、つまりそれは言葉であるのだが、言葉の最小単位である単語にも無限に「裏」があるのだ。言うまでもなく僕達は決して物を完全に把捉している訳ではない。自分の目に写っているこれらが全てでは無いのだ。少し目を凝らせば、言語を逸した情報で溢れかえっている。そいつらには落とし所が無い。気分や技術の問題では無くて、原理的な問題として、落とし所が無いのだ。ただ一粒の砂の語り掛ける声を、僕は一生かけても解読する事は出来ないだろう。だから僕は自分の神経の方を隠遁させなければならない。無視する事。見て見ぬ振りをする事。それが絶叫する物達を黙らせる唯一の方法だ。

 物の細部には確かに神が宿っているのだ。それは美と呼ぶ事も出来た筈だが、もう怪物なのであった。細部は表象を免れ、人間に内面化される事を拒む。ごく部分的に慣れ親しむ事は出来ただろうが、一時の気休めだった。僕には表象…まったくそれは圧縮の形式でしか無かったのだ…をむしろ消してしまおうと、馬鹿な努力をしたものだった。美は余りにも脆弱で、愛は困難な上、破滅的だった。明証性はボロ切れだった。物質はよそよそし過ぎたけれど、神はといえば既に腐敗が進んでいた。同一性は閉鎖的で、しかも幻影だった。慣習に染まる事は周知の通りグロテスクだった。だが今では僕はそれらに頼る人達を、もはや愚かだと言って非難する事は出来ない。無知だと言って退けてしまう事は出来ない。僕はこう言う事しか出来ないのだ。「慣習、それを選んだならそれに浸かると良い。それが破られたなら、別の何かを頼ると良い。」

 人間の発明には、沢山の概念があり、数多の風景があり、無数の精神状態があったに違いない。そして結局全ては人工的だった。僕達は人工的な幻想から人工的な幻想へと「横滑り」しているだけなのであった。なるほど慣習は気味の悪い剥き出しの世界を覆い尽くしてくれる塗装ではあるだろう。だけどドぎつい上に安っぽい色彩だから、どちらにしろ耐え難いのだった。しかし愛はというと、こちらは甘味料なのだった。今まで僕は、愚かにも慣習だけに食ってかかっていたのだ。美はというと、香水だった。しかし我々は何かは選ばなくてはならないのだ。何も選ばないという事は不可能だ。自分に相応しい美を発見する事が一つの達成であるならば、それと同じ意味で、自分に相応しい慣習を身に付ける事だって達成である筈なのだと、言わざるを得ない。とにかく、ハリボテだと分かっていても、どこかにしがみ付かなければいけないのだ。

 僕は昔から雑踏が大の苦手だった。群衆に対する言いようのない不安を抱かずにはいられなかった。自らの体系を持たずして過剰な匿名性の中に埋没する事は危険である。人間達は決して風景にはならないのであった。僕達は情報の大部分を無意識的にシャットアウトする事で生活している。知覚の遮断は望もうと望むまいと、自然に習得されてしまうものであり、惰性と習慣によって鈍った大人達の知覚に対する安っぽい批判を目にする機会は多いが、そうした情報の省略は適応と同義であり、生きる為に必要な技術である事には間違いないのだ。必要に応じて段階的に情報を汲み取れる様にして行く事が健全な成長ならば、求められているのは惰性からの脱却などではないのだ。惰性とは一つの達成である。惰性から脱する技術は、まず適応の上に成り立つのであり、その目的は生活を新鮮に感じる事であるから実質的に一種の贅沢品でしかない。

 人々に好意を抱くには、まるでポスターを見る様にして、把捉出来ないが確かに現実に存在している筈の何か不気味なものから目を逸らしていなければならなかった。僕はポスターの様なブラッシュアップされた表象がどうにも生理的に受け入れられなかった。ポスターは事物に様々なツルツルとした「顔」を付加させていく。人々はポスターによって世界に人間的な親しみを与え、多大な情報を一つのツルツルとした「顔」の元に纏め上げる。だが事物は決して、隅々まで人間的になる事は無い。それは常に我々を裏切り続けるのだ。こうした事物のひしめき合う世界の前で、数々の画家の仕事は無謀に思えるのだった。画家もまた、少々お上品な新たな「顔」を発明するに過ぎなかったからだ。どれだけの「顔」を記憶すれば、僕はこの世界を、ネバついた事物に拒絶される事なく、安心して眺める事が出来るだろうか?それはもう絶望的な試みなのであった。

 記号性、即ち漠然とした属性として人間を「まず」認知する事によって、個人であれグループであれ、性的な関心であるか否かに関わらず、人間に対して「好意」を抱く事が出来るらしいのだ。しかし僕にとって人間はどこまでも謎であり続け、不気味な存在であり続けた。しばしば僕は人間を粘土の塊や気味の悪い人形の様に眺めてしまっている事に気が付く。地域共同体的な共感性の失われた近代に於いて、記号性までもが奪われれば、人間は粘土や人形と何も変わらない様に見えるだろう事は当然あり得る事だ、などと言うのは陳腐だが、僕にはその時、他者を好意という感情で塗り潰す事は都合の良い思考停止にしか思えない。

 人間を恣意的に一面化して眺める事、それが僕には出来なかった。他者達は紛れもなく実存の厚みを持っているのだ。その厚みは他人である僕には不可視であるが、他者達がこの僕の妄想である筈は無い。それは確かだ。誰も心の底から独我論者になれはしないのだ。しかし僕は他者達に、身勝手にも好意を抱く事が罪業に思えるのだ。人間は決して風景になる事は無く、風景さえも決して一つの精神状態にはならない筈なのだ。それなのに僕以外の者は、そんな事を気にも留めず、他者達の顔付きや服装や髪型や口調などから、勝手に一つのキャラクターを脳内にでっち上げ、それをでっち上げたという意識さえせずに受け入れるのだ。例えばアイドルの純真無垢を疑わない夢見がちな少年と何も変わらない事を、誰もがやっているのだ。僕は目に見えるものをツルツルとした質感の表象に還元する眼差しを拒絶したいのだ。そして気が付けば僕は解釈する事自体が愚行である様な世界に投げ出されているのだ。

 僕としては正直の所、知識を身につける事で世界を広げようと思う事なんて丸であり得なかった。勉強する事は、既に見えてしまった理不尽な世界を、人間的な解釈で追い抜こうとする作業だった。勿論、知識が増えるに従って、半ば自動的に世界は広がって行ったけれど、そんな事は楽しみでも何でも無かった。そんな事は気にも留めなかった。視野の拡張は道具として役立つ事はあった。だけどそんな事は全く切実な問題では無いのだった。

 変人を変人と呼び、馬鹿を馬鹿と呼び、まともそうな人をまともそうな人と呼ぶ事、それは言葉の「身を守る」効力なのだ。言葉を意識的に扱う事で言葉を疑い、「顔」を疑う僕は、いわば言葉によって作り上げた世界を、解鍵してしまうのだった。単語の一つ先は、段階を踏む事なく、突然の無限に繋がっている様に感じるのだ。もう言葉は僕を守らない。気を保つ事、それは単語の「力」を、名詞と形容詞の「力」を利用する事、むしろ「力」の中にすっぽりと身を隠すという事なのだ。だが言葉が所詮、世界を分類する為の記号でしか無い事を僕は知っている。

 事物に「顔」を与える試み、それをもう僕は諦めてしまいたかった。なるほど事物を記号的に認識する事は、日常を生きる為の武装として役に立つだろう。それを僕は否定しない。人間は自分が信じている認識の総体の内側に留まる事で身を守っている。だが事物が人間が過信している認識を裏切る事もまた事実だ。僕は「顔」を持たない事物達の常軌を逸したダンスを、それ自体として美と呼べるようにする必要があるだろう。しかしそれは、美である筈が無かった。醜悪でも、あるいは崇高でもある筈が無かった。それは何でも無い印象、逃れ去って行く印象でなければならないのだ。「顔」を持たないという事が、この世界の本質なのだから。

 僕は言葉の世界の内部と、言葉の破られる世界の、両方を生きる術を身に付けなければならなかった。どちらか一方に身を留める事は出来ないのだ。少し目を凝らして見てみれば、物達は恐るべし姿を露わにする。それを防ぐ手立ては無いのであった。芸術家は物達に「顔」を与え続けて行く。それは賞賛すべし、発展的で人間的な行いだ。だが僕達はまた、「顔」を逃れ続ける物達の世界を生きている事を認めなくてはならないのだ。僕達はイメージを逃れる物にイメージを与え、言葉の極北に向かって言葉を尽くさなければならない。そうした行いは事実、この上なく矛盾に満ちた行為だ。しかし世界を、人間を裏切る物として見做し、それに対抗する形で「顔」を発明し続ける事は、いわばアキレスと亀の様な無限の追いかけっこだ。僕達は世界に追い付く事は出来ず、物達は僕達を何度でも容赦なく攻撃し続ける事は既に決まっている。

 かつて画家、パウル・クレーは、時代が悲劇的であればあるほど芸術は抽象に向かうと語った。悲劇とは「言葉から逃れ去る物達」であったのだ。彼の言葉は当然、戦争の非人間性や、近代的理性への信頼の喪失を指し示していた。意味を奪われた剥き出しの世界に投げ込まれた人間は、もはやこの世界に「顔」を一つ一つ付与する事で、見慣れたものにしてしまおうとは思わなかっただろう。そうした試みが破局を迎える事は明らかになってしまったのだから。もうこの世界では、対象の直喩的な明示は不可能となってしまったのだ。そうした状況こそが悲劇なのであった。そうなれば人は、この不可知の世界自体を描こうとせざるを得ないだろう。それはもはや世界に慣れ親しむ為の幻想をまた一つ創り出す事ではあり得ず、理解不可能な世界の不可能性と共和する不可能な試みだ。

詩の発生

 嘆きを嘆きとして表現するだけでは優れた詩にはならないと僕は思う。矛盾を抱え込みながら対立を乗り越えるか、対立そのものを肯定的に提示しなければならない、という気持ちがある。嘆き悲しむ者は、許しや報いを欲する事なく、美によって現実を受容し、美の質感によって許しが現れる様でなければならない。矛盾を誤魔化す事なく見据えれば見据えるほど、美は困難になるが、その輝きも増すのである。自己と世界の対立が激しければ激しいほど、必然的に外的な状況に依存した解答を与える事は難しくなる。しかし対立が強いほどに、それが詩として表現された際の救いの力は普遍的になる。

 僕が考える良くない詩とは、たとえば孤独を嘆く精神の解決策として友人や家族や恋人を出現させる様な詩である。この様な詩は状況を改善させる事で問題を飛び抜けてしまう。しかしどれだけの芸術がこの様に状況に依存した形で解決策を提示した気になっている事か。我々は心構えを変えなければならないが、心構えを変えれば必ず現実が改善される保障などない。現実はどこまでもコントロール不能であり、不条理に満ちている。だから人は自由や努力を完全に信頼してはならないし、そこから派生される自己責任のロジックを用いてはならない。孤独の経験の後で、結果として他者との新たな接触があるのは勿論構わない。しかし他者との接触が彼の救いであってはならない。他者の出現が即ちハッピーエンドの証明であってはならない。彼はただ孤独を潜り抜ける事によって一つの詩を獲得したのでなければならないのだ。

 なるほど意志的な活動意欲を刺激する詩があっても良かろう。或いは現実とは違うもう一つの甘美な幻想世界へ誘う詩が。しかし僕がこの文章に於いて言う所の美の概念に則るならば、そうした詩は、詩として美しくないとはっきり言おこう。こうでしかない現実を真っ直ぐに見抜き、この世界がただこの様にある事の衝撃を感じる事の中に美は存在するのだ。我々は優れた絵画を自分のものにしたいなどと思うだろうか。絵画を自室の壁に飾る事までは出来る。だが優れた絵画はいつでも「そこにあるだけで良い」ものなのだ。自己から離れて、ただそのままである事に満足する様な対象。如何なる干渉を及ぼそうとも思わない様な対象。手を触れる事が罪悪であるかの様に思われる対象。それこそが美なのである。一体、誰に絵画を「所有」する事など出来るのだろうか?いや、絵画を「所有」する事は何者にも出来ないのだ。詩は世界その物を一枚の絵画にしなければならない。

 綺麗に咲いた花しか美しいと思えない人は、虫の存在を隠蔽するだろう。詩が生まれるのは、花が決定的に奪われた時なのだ。この残酷な世界に於いて、花は損なわれ得るものなのである。愛の対象の欠損こそが、あるがままの現実を開く唯一の扉なのだ。もし花以外の物に美を与える詩が生まれなかったならば、その時は美の敗北だ。そうなれば我々は幸福を手にする為に、再び花を咲かせようとする事しか出来ないだろう。しかし現実は取り返しの付く事ばかりではない事を、詩を持つ者は知っている。我々が他者を妬まずにいられるとすれば、それを単なる態度の問題として片付けるべきではない。新たな詩の誕生が、虫を美しいと思える精神の誕生が、現実を受け入れされるのだ。妬みを醜い心だと責める必要はない。態度を変えようとする必要もない。救いはその様な強引さによってもたらされるのではない。妬むな、恨むな、受け入れろと幾ら自分に言い聞かせた所で、心が捻じ曲がるのみで効果はない。詩は極めて繊細かつ全体的な知性の働きによってもたらされるのだ。人の心の変化はこの様に起こるのである。かくして、花を枯らしてしまった者にとって 、詩の出現こそが救いとなるのである。

 新たなる現実が開かれたならば、詩は生み出されなければならない。だから美の創出は、現実との絶えざる(敗北から始まる新たな)闘いだ。しかしどちらが幸福と言えるだろうか。死ぬまで花に囲まれて生きるのと、理想が破られ、思い通りにならない現実に触れるのとでは。残酷さだけが、傷付けられる事だけが、生々しい実在感に触れる術だとしたら。僕はここで一つの解答を提示しようというのではない。花を愛し続ける事もよかろう。どちらがより良い人生か、などという結論を出す事は手に余る。美を推奨する事は、時に残酷な行いでもあるのだ。ただし花は決定的に朽ち果ててしまうかも知れない。我々は、自らの認識に亀裂を入れる様な新たなる詩の閃光を導き入れる覚悟を持っておいて損はないだろう。美とは、我々をうっとりさせるものでは無いのだ。うっとりさせるものは、所属、承認、慣習、愛情などによる相対的な居心地の良さである(ここで僕はそれを美と相対化するが否定はしない)。美とは我々の理想を木っ端微塵に吹き飛ばし、我々の肉体を焼き尽くさずにはあり得ないものなのだ。

雨の日の天啓

プロローグ

 その日、僕は雨の降る中、誰もいないビーチで膨れ上がった溺死体が引き揚げられるのを一人眺めていた。性別不明の水人間の口、かつて口であったと思われるボソボソとした穴の中から鮮やかなオレンジ色の魚、カクレクマノミが一匹這い出てきた。きっとその縺れた舌をイソギンチャクと勘違いしたのだろう。恐ろしい鮫に追われて慌てて逃げ込んだのかも知れない。きっと何か滑稽な失策を犯して鮫を怒らせれてしまったのだ。まるでアニメみたいに。そう、ファインディング…なんだったっけか。思い出せないが、まぁいい、とにかく海は危険がいっぱいだ。死体処理業の人達はまだ、その可憐な小さな命に気付いていない様子だ。ドジな可愛いやつ、イソギンチャクとこんなブヨブヨに変形した醜い脂肪の塊を間違えるなんて。その時僕の頭は突然閃いた。なかなか使い物にならない僕のポンコツの頭脳だが、こうした時に限っては役に立つ。思い付いたんだ、この可愛い奴に名前を付けるなら「ニモ」しかないって。素晴らしいネーミングセンスだろう。ぴったりだ。さっそく皆に知らせてやりたくなって来た。何故かは分からないが、こいつの名前は「ニモ」以外にはありえないって思ったんだ。まるで天啓のようにその二文字が降ってきたんだ。きっと誰もが気に入ってくれるだろう、「ニモ」!ああ、可哀想な「ニモ」!しかし君を助けてやる事は僕には出来そうもない…さようなら「ニモ」!君がこれからどこに向かおうというのか知らないが、幸運を祈る。君の冒険がありありと目に浮かぶよ!この残酷な世界を無事生き延びろ「ニモ」!